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「被爆者に普通の暮らしはない」と振り返る岡田朝子さん=神戸市北区
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「被爆者に普通の暮らしはない」と振り返る岡田朝子さん=神戸市北区

 「ばあばがあの日に死んでたら、君はこの世界にいないよ」。原爆投下から74年になる9日朝、岡田朝子さん(75)=神戸市北区=は孫の小学3年生(8)と共に長崎市の平和祈念式典へ参列する。1歳半で被爆した後、人生は不安の連続だった。偏見で縁談は破談になり、子どもに恵まれた後も見えない放射能におびえ続けた。「記憶が薄れていく今だからこそ、自分の口で伝えなければ」。初めて孫を爆心地へ案内し、74年の思いを伝える。(津田和納)

 1945年8月9日の朝は、爆心地から約6キロ離れた自宅の庭にいた。「ピカッと光り、爆風が吹いた瞬間、祖父が干していた布団で私を包み、命を守ってくれたそうです」。岡田さんは母親から聞いた話をとつとつと語り始めた。

 黒い雨が降る中、薬問屋だった実家には大勢の人が駆け込んだ。その中には爆心地から3キロの地点で被爆した伯父もいた。全身にやけどを負い、傷口にはうじ虫がわいた。一命は取り留めたが、ケロイドが生涯の悩みとなった。

 岡田さんは長崎の短期大学を卒業後、神戸の親戚を度々訪ねるようになった。20歳の時、兵庫県芦屋市の男性との縁談がまとまりかけたが、出身地を知られると「何となく避けられた」。被爆が大きな障害になることを、身をもって知った。

 母は娘の被爆者健康手帳を作らなかった。「普通の生活をさせたいという親心だったんでしょう」と岡田さんはおもんぱかる。

 神戸出身の夫俊成さん(79)は、出自を知っても黙って受け入れてくれた。2人の息子に恵まれたが「妊娠した時は放射能の影響がないか心配でたまらなかった」。成長過程も不安はつきまとい、子どもが病気にかかると自分を責めた。

 父親は50代、母親は84歳の時、いずれもがんで他界した。岡田さんは50代になってから、夫と相談して被爆者健康手帳を取得した。

 「忘れたいと思いながら、今も毎日おびえて暮らしている。普通に生きる権利を奪った戦争が憎い」。体験を語り継がなければとの思いに駆られ、今年は孫を連れて長崎へ向かう。

 生まれ育った街を孫と共に歩き、多くの命を奪った原爆の恐ろしさを伝えたい。そして「たった一つの命を大切にする」と約束を交わすつもりだ。「暴力では何も解決できない。新時代を生きる子どもたちに、全ての人が仲良く暮らせる世界をつくってほしい」

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