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戸籍謄本を見ながら、日本語支援ボランティアらにルーツを語る前田麗子さん(右)。共に苦労した夫馬棟さんの遺影に見守られながら暮らす=明石市魚住町清水
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戸籍謄本を見ながら、日本語支援ボランティアらにルーツを語る前田麗子さん(右)。共に苦労した夫馬棟さんの遺影に見守られながら暮らす=明石市魚住町清水
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 「あの戦争で誰か幸せになったのか」。戦時中に旧満州(中国東北部)へ渡り、終戦後の混乱で家族が離散した前田麗子さん(75)=兵庫県明石市=は強い口調で訴える。極貧の中で中国人の養女になり、養母から虐待を受けた。2歳年上の兄の消息は今も分からない。残留孤児の認定を受けて38歳で帰国し、言葉や習慣の壁に苦しみながら生活基盤を築いたが、戦後74年を経て思いは募る一方だ。「今もお兄さん、どこにいるか分からないよ。ずっと、こんな思いをさせる戦争が憎いよ」(津田和納)

 前田さんは1944(昭和19)年、神戸市須磨区で生まれた。両親と兄寿一(としかず)さんと共に、生後7カ月で旧満州・ハルビンに渡った。

 終戦後、一家はソ連軍から逃げ、撫順(ぶじゅん)の難民収容所にたどり着いた。食事も布団もなく、夜は氷点下20度まで冷え込んだ。命の危機を感じた父は、子をほしがる中国人夫婦に打診する。

 「男と女、どちらがいいですか?」「女の子がいい」

 父は夫婦から金銭を受け取り、その金で1人帰国したと後で聞かされた。

 前田さんは1歳4カ月で養女となり、「李菊梅」としての人生を歩み出す。だが、養母は次々と子を産み「もういらない。日本に帰れ」と怒鳴った。残飯が与えられ、養父がいない時には鉄の棒で殴られた。前田さんの右肩と額には、今も生々しい傷痕が残る。

 小学校では「小日本(シャオリーベン)」とさげすまれ、養母の親族宅を転々とした。別の家の養女となり、「馬麗」と名を変えたこともあったという。

   ◇   ◇

 13歳で働きに出て、16歳で曲芸団員に。二胡の奏者だった夫馬棟さんと結婚し、2男2女に恵まれた。転機は35歳の時。広島の叔母から手紙が届き、実母が中国・石家荘で生存していると知った。

 すでに再婚し子も4人いた母を呼び寄せて暮らしたが、関係はすぐに破綻した。「何十年と離れていたから、お互いに理解できないことばかりだった」

 父は帰国後に亡くなり、兄は行方不明とも知った。生き別れた兄に会いたい-。中国領事館などに問い合わせたが「中国名が分からず手掛かりはなかった」。

 その後、孤児の帰国事業に取り組んだ長野県の僧侶山本慈昭さんと出会い、38歳の時に一家で日本の地を踏んだ。だが、言葉や習慣の違いに苦しみ、夫の希望で中国へ戻った。

 それでも「死ぬ時は自分の国で」という思いは消えなかった。再び帰国して神戸市長田区の靴製造会社で勤務。夫とは55歳で死別したが、9人の孫と8人のひ孫に恵まれた。

 最近は世の中の動きに神経をとがらせる。自衛隊の海外派遣、安全保障関連法の施行、そして憲法9条改正の動き-。分からない単語は電子辞書で確かめる。

 「日本はまた戦争をしようとしてる。絶対に駄目」。真剣な表情で記者に訴えた。

【中国残留孤児】大日本帝国が建国を宣言した旧満州国には、開拓移民として全国から約27万人が渡ったとされる。終戦直前、ソ連の対日参戦で関東軍が撤退。戦闘や飢餓で多くの命が失われ、肉親と離別した子どもたちは中国人の養父母に育てられた。政府は1981年から孤児らの永住帰国を本格化。厚生労働省によると、2019年6月末までに孤児と認定されたのは2818人で、うち身元判明者は1284人。これまでに帰国した中国残留邦人は6723人に上る。

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