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自作の資料を見せながらフィリピンでの戦闘体験を語る岡田良さん=三木市
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自作の資料を見せながらフィリピンでの戦闘体験を語る岡田良さん=三木市
フィリピンを離れる際の岡田良さん(本人提供)
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フィリピンを離れる際の岡田良さん(本人提供)

 大平洋戦争中の1944(昭和19)年10月、フィリピンの戦いで、爆弾もろとも敵艦へ体当たりする特攻が始まった。戦闘機「紫電」のパイロットで、当時特攻機の護衛を務めた岡田良(りょう)さん(92)=兵庫県三木市=は、未来ある若者が敵艦に向かい命を散らすのを見てきた。15日で終戦から丸74年。岡田さんは今も「生還を望む戦い方はできなかったのか」と問い続ける。

 飛行機に憧れていた岡田さんは、16歳で海軍飛行予科練習生を志願。44年10月、台湾沖航空戦に参加した後、フィリピンへ進出した。旧日本軍は南方からの資源輸送ルートを守るため陸海軍で決戦を挑む中で航空機の特攻を始め、同25日、初めての戦果を挙げた。

 この頃、岡田さんらの「第三四一海軍航空隊」はフィリピン北部のマルコット飛行場で、上官から特攻隊へ志願する意志を聞かれた。ほぼ全員が志願。断れる雰囲気ではなかったという。「自分の技量が及ばず撃墜されるのは仕方ないが、爆弾を抱えて突っ込むのはやりたくないのが本心だった」。結局、特攻には指名されず、護衛を命じられた。

 ゼロ戦に襲いかかる敵機を散らし、戦果を確認する。特攻隊と出撃したのは、3回ほどと記憶している。その際、同じ飛行場で寝泊まりした隊員たちは18、19歳が多かった。みな口数が少なく、悲壮な空気を感じた。夜は座り込んだり寝返りを打ったりしていた。岡田さんは「お国のためと割り切ってはいても、家族のことが気になっていたのではないか」と推察する。

 護衛では、特攻機の数百メートル上空で、やや前方を飛んだ。攻撃された際に高度が高い方が行動しやすいからだ。戦死すれば特攻隊に含まれて発表され、同じように2階級特進する。だが任務は簡単ではない。数で勝る敵機と遭遇すると、味方と入り交じる空中戦に。「敵機を追い払うのに必死で、突入を確認する余裕はない。気付けば1機だけになっていたこともあった」と振り返る。

 45年の正月ごろだったか、岡田さんは不足する紫電を内地まで取りにいく任務に手を挙げた。もう一度、日本の空気を吸いたかったという。選ばれなかったが「生への執着が断ち切れなかった」としみじみ語る。

 出撃する時の特攻隊員は、勇ましい雰囲気を漂わせていた。「彼らにも生への執着はあっただろう。生きたいという気持ちを表に出せないのはつらかったと思う」

 特攻でなくても味方の航空機は失われる一方だった。45年1月下旬、岡田さんらの部隊はフィリピンを離れる。その後も、特攻は沖縄戦などで展開され、終戦まで続いた。

 戦後、岡田さんは戦争体験を4人の子どもたちに伝えたい、と記録を書き残してきた。「今思えば、特攻は残念で腹立たしい。国と国の利害が対立しても、国民同士が殺し合う理由はない。戦争ではなく、話し合いで解決する世の中になってほしい」と願っている。(森 信弘)

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