「和牛の聖地」記憶伝える 雪害機に50年前廃村 香美「熱田」
2019/12/22 09:40
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鳥取県境に近く、冬は雪で閉ざされる兵庫県香美町小代区(旧美方町)の高地に「熱田(あつた)」という廃村がある。但馬牛(うし)が外国種との交配による育種改良に失敗した明治期以降、新たな血統を作る基礎になった純血種が存在した“和牛の聖地”として語り継がれてきた。主婦1人が犠牲となった雪害を機に、全住民が集団移住を余儀なくされてから半世紀。熱田の「生き証人」と呼ばれた父親を今年亡くした出身者の女性は「集落が朽ち果てても、熱田の記憶を伝え続けたい」と話す。(金海隆至)
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香美町小代区と鳥取県若桜町を結ぶ国道482号から山道に入り数キロ。こけむした熱田橋を渡り、車がやっと通れるほどの狭い道を上った先が熱田だ。除雪が困難な12~3月は国道が閉鎖されるため、誰も足を踏み入れることはできない。
標高約700メートルの集落では、住民が但馬牛と寝起きしながら稲作や蚕の飼育に従事し、冬は酒造りなどの出稼ぎで生計を立てた。水道やガスはなく、電気は自前の水力発電で確保。電話は公衆電話1台のみだった。住民の手で開校した小南小学校(現小代小学校)熱田分校に通った吉田(旧姓田淵)真佐子さん(67)=同町小代区秋岡=は「電気を通してくださいと県知事にお願いする手紙を児童全員で書いた」と振り返る。
雪害に見舞われたのは1968年2月14日。大雪が降り積もった山道を、真佐子さんの母親ら主婦6人が買い物から帰宅する途中、雪崩で生き埋めになった。5人は助け合ってはい出したが、1人が翌日遺体で発見された。当時中学生だった真佐子さんは、悲しみに打ちひしがれた母親の姿が忘れられないという。
雪深い現場へ救助に駆け付けた消防団長は「なぜこんなところに住まなければならないのか」と嘆いた。「その言葉が耳から離れない」と、真佐子さんの父徳左衛門さんは美方町の郷土資料に記している。
へき地の不便さに雪害が追い打ちとなり、全住民9世帯約50人は翌69年12月25日、美方町が同町中心部に建設した越冬住宅へ集団移住した。「わしらが死んでからにしてくれ」と抵抗した古老らの反対を押し切っての決断だった。
徳左衛門さんは移住後も但馬牛の放牧や農作業のため熱田に通った。大阪市の市民団体「大阪自然教室」が2010年ごろまで30年以上開催した自然体験教室を熱田の家屋で受け入れ、まきを割って自炊する小中学生を温かく見守った。自然への知恵と実直な人柄で尊敬を集め、交流した若者は延べ約900人。「人生観が変わった」思い出を胸に熱田を再訪する卒業生が今も後を絶たないという。
妻に先立たれた徳左衛門さんは今年3月、「遺骨は熱田に」との遺言をして逝った。墓石は家屋裏の山林に立つ。真佐子さんは「父親も眠る熱田を何らかの形で残したい。訪れる人がいる限り、終わらせたくはない」と話す。
【越冬住宅】豪雪地帯の住民が積雪期を市街地で過ごすため兵庫県美方郡などで建設された住宅。香美町小代区(旧美方町)では1969年の熱田に次いで、71年には小長辿(こながたわ)集落の移住に向けて完成した。熱田では木造2階建て9棟のほか、共同使用の牛舎や倉庫を無償で譲渡。住民は借地料を支払った。移住後再び集落に戻った人はいない。現在暮らすのは1世帯1人のみ。