五輪の季1964-2020 先代が命名、オリンピック製麺所
2019/12/31 06:00
年の瀬でにぎわう大安亭市場。長年、オリンピック製麺所を営んできた光山和秀さんはまちの未来を見据える=神戸市中央区八雲通4(撮影・辰巳直之)
アーケードに入ると、新時代・令和を祝う日の丸が下がる店先で、店主たちは年の瀬の買い物客を呼び込んでいた。大規模開発が続く神戸・三宮に近い立地ながら、今なお昭和の残り香をまとう大安亭市場(神戸市中央区)。その一角で、うどん1玉85円で売る店が営業を続けている。
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屋号は「オリンピック製麺所」。半世紀を経て再び日本に巡ってきた東京五輪について、2代目店主、光山和秀さん(76)は「あの年は、鮮明に覚えてます。なんせタイガースも強かった。最後は南海に負けましたけど」と懐かしむ。
1964(昭和39)年10月10日。甲子園球場で行われたプロ野球日本シリーズ最終戦がかすむほど、国民の視線は東京・国立競技場へ注がれていた。同日の神戸新聞夕刊は「アジアの空に聖火燃える」の見出しで五輪一色だった。
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64年五輪は終戦から20年足らずで開催された。戦災を生き延びた人たちが、焼土に店や町工場を開き、街を再建した。同製麺所も47(昭和22)年に開業。父嘉一さんが、そごう神戸店(現神戸阪急)のそばに店を構えた。光山さんは「なぜかおやじがオリンピック精神の『参加することに意義がある』を気に入ったらしくて」と店名の由来を明かす。
五輪当時、兵庫県南部に広がる阪神工業地帯や播磨臨海工業地帯では、製鉄会社の高炉や大小の工場がフル稼働し、日本経済の根幹を支えた。兵庫県の本庁舎や神戸ポートタワーの建設、国宝姫路城の「昭和の大修理」も完了し、街の顔がそろう。九州や沖縄から若者が職を求めて移り住み、労働者の胃袋を満たす飲食店もにぎわった。
うどん玉を卸す得意先は数え切れず、学生時代から店を手伝っていた光山さんは「日本中の景気が良く、勢いがあった。とにかく忙しかった」と話す。
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五輪後の石油ショックなどを乗り越え、日本経済が絶頂に上り詰めた89(平成元)年。光山さんは店を継ぎ、神戸製鋼所の城下町といわれた神戸市灘区の岩屋市場に店を移した。しかしすぐにバブルがはじけ、阪神・淡路大震災で店舗兼住宅が全壊。半年後、大安亭市場で店を再開させた。
「街の台所」だった神戸の市場では震災以降、個店を連ねる構造から、スーパー形式に衣替えする動きが続いた。大型スーパーの大量出店、インターネット通販の拡大も重なって安さが競われ、市場や対面販売は姿を消しつつある。
「米屋も酒屋も定食屋も個人店はどんどん減り、今はチェーン店ばかり」と嘆く。戦後に創業した自営業などの中小企業経営者は高齢化し、跡継ぎがなく、店や会社をたたんでいる。その数は年間4万件超。“大廃業時代”に入った。光山さんの得意先も減り、同業者は同市中央区の2軒だけとなった。
店とともに客も様変わりしつつある。人口が減る中、外国人住民は増加。大安亭市場内外には中国、韓国、ブラジル、ベトナムなどの店が並ぶ。
「本当に多国籍なまちになった。どんどん変わる世の中に適応しないといけない」。光山さんは五輪で重みを増すテーマ「共生」を胸に、まちを行く人たちに笑顔を向ける。(段 貴則)
【即席麺】製麺業者にとって大きなライバルとなったのは、即席麺(インスタントラーメン)の台頭だ。世界初とされる「チキンラーメン」が誕生したのは1958年。日清食品の創業者安藤百福(ももふく)氏が研究を重ねて商品化した。世界初のカップ麺「カップヌードル」も71年に開発。即席麵は安価で手軽に食べられることから、全世界に広がり、現在は年間千億食以上が消費されている。