娘の救出求め奔走 「恵子を抱きしめたい」願いかなわず

2020/02/06 12:45

涙をぬぐいながら会見に臨む有本嘉代子さんの夫・明弘さん=6日午後、神戸市兵庫区新開地3、平安祭典神戸会館(撮影・後藤亮平)

 北朝鮮に拉致された娘との再会を果たせぬまま、有本嘉代子さんが3日、亡くなった。英ロンドンに語学留学した三女恵子さんが欧州で失踪して40年近く。「恵子を抱きしめたい」。北朝鮮の動向に翻弄されながらも、夫の明弘さん(91)とともに政府への働き掛けや署名、講演活動に奔走したが、願いはかなわなかった。 関連ニュース 有本さん、トランプ氏に望み託す 高齢で体調優れず「これが最後の機会」 「夢や絆を奪われた」拉致被害者、蓮池さん 恵子さんは平壌に「これで娘は帰れる」しかし… 有本さん家族の希望が怒りに変わった出来事

 「言葉が出えへん」。明弘さんは6日、神戸市内で会見を開いた。何度も涙を拭い、憔悴しきった表情で言葉を振り絞った。葬儀・告別式は同日、「嘉代子さんの意向」で近親者のみで執り行い、静かに見送ったという。
 最期までまな娘を案じ続けた嘉代子さん。難産だった恵子さんは赤ちゃんの頃、よく熱を出した。6人きょうだいの中では、一番おとなしい性格。「病気を除けば、聞き分けがよく、手の掛からない子」だった。大学卒業を前に恵子さんが「留学したい」と言いだした。「素直な恵子がわがままを言ったのは、あの時限り」。異国の水が合わずに体を壊さないかと案じて反対したが、最後は送り出した。
 失踪6年目の1988年。恵子さんが北朝鮮にいることが分かり、嘉代子さんは外務省や国会議員、捜査当局などに恵子さん救出を訴えたが、ほとんど相手にされなかった。「国交がない」。外務省では、廊下での立ち話でしか対応してもらえないこともあったという。97年に新潟県出身の横田めぐみさん=失踪当時(13)=の両親らと家族会を立ち上げ、粘り強く協力を求め続けた。
 「恵子さんが平壌で記者会見する」。2002年春、恵子さんの生存情報が流れた。嘉代子さんは、安堵し、救出への手応えを感じつつも「恵子だけ帰ってきても意味がない」と繰り返した。
 その年の秋、小泉純一郎首相が訪朝した。「やっと恵子が帰ってくる」。都内で結果を待ったが、北朝鮮が伝えた生存者の中に、恵子さんの名はなかった。「ガス事故で死亡した」とする北朝鮮の主張に信ぴょう性はなく、夫婦で生存を信じ続けた。
 「最後のチャンス」。そう期待を寄せた14年の日朝協議では、北朝鮮が拉致被害者らの再調査を約束したが、後に全面中止に。18年に実現した歴史的な米朝首脳会談でも前進しなかった。解決への道筋が見えない中、嘉代子さんは“残された時間”を意識した言葉を口にするようになった。「恵子を抱きしめるまで、何とか元気でいさせてほしい」「もう祈ることしかできない」
 「来年こそは恵子と一緒に」。毎年1月12日の恵子さんの誕生日は自宅で取材を受けながら、明弘さんと2人で祝ったが、恵子さんが還暦を迎えた今年は、入院先のベッドにいた。
 病室で寄り添った明弘さんは別れを覚悟し、「長いこと世話になったな」と声を掛けたという。それから1カ月足らず。周囲の願いも届かず、帰らぬ人となった。(段 貴則)

神戸新聞NEXTへ
神戸新聞NEXTへ