尼崎JR脱線事故15年 あの日その現場(下)「生死判別できない。そんな人たちがたくさん」

2020/04/27 06:00

マンションに激突した快速電車の車両。警察官や消防隊員だけではなく、近隣企業からも多くの社員が救助に出向いた=2005年4月25日、尼崎市内

 脱線現場西側の線路沿いには、傷ついた乗客たちが体を横たえていた。 関連ニュース 「人が死ぬってこんなんなんや」脱線事故、車両乗車者の証言 【写真】遺体安置所で遺族に土下座して謝罪するJR西日本の幹部 「死にたくない」車体に挟まれ動けず 隣の男性が亡くなるのを感じた

 「生きているのか、亡くなっているのか-。判別できない。そんな人たちがたくさんいた」(当時31歳、中学校教諭の杉谷剛一さん)
 すぐそばにある尼崎市立大成中学校(兵庫県尼崎市)。1時間目の授業を終えた直後の杉谷さんは、吹奏楽部の楽器をくるむ毛布を持ち出し、乗客たちに掛けていった。
 中に1人の女性がいた。杉谷さんは首から下に毛布を掛けた。直後に来た救急隊員がトリアージのためか、何かを確認する。そして毛布を、女性の顔を覆うように掛け直した。
 混乱した声。2005年4月25日午前9時18分の事故発生からまもなく、尼崎市消防局に1本の通報が入った。「すいません、あのね、えーと、えーと…」「電車が、JR宝塚線なんですけど、目の前で脱線です」
 当時43歳の吉野千春さん=尼崎市=は自宅から近くに住む母の家に行く途中、目の前で電車が横転した。
 方々からうめき声。近くの尼崎市公設地方卸売市場で水をもらい、負傷者の血を拭った。「とにかく助けなくちゃ」。体が勝手に動いた。
 「駆け付けた警察官に『あなたも血だらけですよ』と。けがをした人たちの血だった」(吉野さん)
 「自動車整備会社の一角に20人ぐらいが寝かされていた。臨時でできた遺体の安置場だったことを後で知った」(当時39、「角倉商店」社長の角倉克彦さん)
 卸売市場内にある会社に配送先から戻り、事故を知る。現場に着いたのが午前10時前。既に多くの人が駆け付けていた。遺体や負傷者を運ぶ手伝いをした。
 阪神・淡路大震災で、自宅がある西宮市の惨状を目の当たりに。それでも思わざるを得なかった。「こんなことほんまにあるんか」
 「想像を絶する光景だった。でも、命を助けるためにみんなが一生懸命だった」(角倉さん)
 近隣自治体から次々と応援部隊が到着する。辺りはガソリン臭に満ち、救助活動は難航した。
 「まず、どれが2両目か分からなかった」(当時40、芦屋市消防本部救助隊員の濱田康男さん)
 車両から人が出るスペースをつくるだけで数時間かかった。「頑張れ」。自然と声が出ていた。
 時間を忘れて救助に駆け回った吉野さん。何時に帰宅したかも分からないほどふらふらだった。
 「夢やったらいいのに。そう思って翌朝を迎えた」(吉野さん)
 次の日、ニュースを見た。夢ではなかった。
    ◆
 あの日から、それぞれの15年がたった。1両目後方左側座席に座っていた当時会社員の女性Aさん(47)=西宮市=の心には、今も申し訳なさがつきまとう。
 「生きててごめんなさい。遺族のことを思うと、そう考えてしまう。消せない。消せないんです。だから、その気持ちと一緒に生きていく」
 今は2人の子の母。ゆっくりとでも、事故のことを話していこうと思っている。
 1両目で背骨を折る重傷を負った当時大学生の男性Bさん(33)=伊丹市=は、病院のシステム管理をするエンジニアになった。医療に貢献したいと思ったからだ。宝塚線を使い、大阪市内に通勤する。
 「自分に何ができるのか。せめてもの思いで、取材に気持ちを話している」
 青い空の下、電車は今日もあの場所を走っている。
(大盛周平、大田将之、名倉あかり、久保田麻依子)

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