大阪大空襲の悲惨な経験 紙芝居で語り継ぐ女性

2020/07/26 07:30

紙芝居「孫よ伝えて」を作り、空襲を語り継ぐ小林英子さん=西宮市(撮影・秋山亮太)

 1945年6月の第3次大阪大空襲で右脚に大けがを負った兵庫県西宮市の小林英子さん(87)が、経験を紙芝居にし、子どもたちに読み聞かせている。「どうしよう、私は焼け死ぬ!」。右膝からポタポタと血を流し、火と煙に包まれ絶望した12歳のあの日。けがの治療で女学校に通えず、4度の手術をへて障害が残った。こんな思いはもう、誰にもしてほしくない-と、次世代に記憶のバトンを託す。(中島摩子) 関連ニュース 【動画】「どうしよう、私は焼け死ぬ!」紙芝居で子どもたちに読み聞かせ 「ちょっとした違いで人の命決まった」姫路と東京で空襲体験、元病院長が語る なぜ大空襲で姫路城は無傷だったのか 奇跡の歴史を探る

 45年6月7日、小林さんは母、弟と家にいた。「ゴーッ」。屋根が持ち上がるかと思うほどの爆音に続き、大雨のように焼夷(しょうい)弾が落ちてきた。逃げる途中、小林さんは家族と離ればなれになった。
 焼夷弾の破片が膝に当たった。「ざくろの実のように膝が割れ、ブラブラでいうことをきかない」。火と煙の中で立ち尽くし、死を覚悟した。その時、見知らぬ家族連れが通りかかった。「連れて行ってちょうだい!」。しがみつくと、男性がおんぶしてくれた。
 病院で麻酔なしの手術を受け、痛くて気を失った。母や弟に再会できたのは4日後。この空襲で2759人が亡くなったとされる。
 治療で長期入院し、再び女学校に通えなかった。看病してくれた祖母は、終戦翌年に栄養失調で死去。生活のため、16歳から働いた。膝下が外側に曲がり、28歳までに4度手術し、障害が残った。
 32歳で結婚し、西宮市に暮らした。2008年には大阪空襲訴訟の原告団に加わり、国を相手に提訴したが、一審、二審も敗訴し、最高裁でも棄却された。悔しい思いが重なった。
     ◇
 小林さんは10年以上前から、幼少期を過ごした大阪市都島区の小学校を毎年訪問し、空襲体験を語ってきた。7年前からは紙芝居を手作りして読み聞かせている。次世代の小学生に向けて、タイトルは「孫よ伝えて」とした。
 「火の台風が荒れ狂うようだった」「電信柱にお猿さんのようにしがみつき、真っ黒になっている人がいた」。当時の光景と壮絶な体験を、20枚の紙芝居に盛り込んだ。
 戦後75年。小林さんは「戦争は皆を惨めにする。私の一生は子どもの頃に決まってしまった」と振り返る。コロナ禍で、今夏は小学校で披露できなかった紙芝居は、次世代へのメッセージで終わる。
 「戦争は嫌。勝っても負けてもいいことはありません。大きくなったら絶対に反対してくださいね」
【全編動画】紙芝居で大阪大空襲を語り継ぐ女性

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