総合 総合 sougou

  • 印刷
従軍看護婦の日々を振り返る治居冨美さん=小野市市場町、複合福祉施設くつろぎの杜
拡大
従軍看護婦の日々を振り返る治居冨美さん=小野市市場町、複合福祉施設くつろぎの杜
治居さんに届いた召集令状。4日後に札幌市内に集まるよう指示している
拡大
治居さんに届いた召集令状。4日後に札幌市内に集まるよう指示している

 それは「女の兵隊さん」を集めるための赤紙だった。太平洋戦争で米国の攻勢が強まっていた1943年4月10日、北海道の日本赤十字社救護看護婦養成所。戦地への召集を命じる紙は、男の兵隊さんと同じ赤色だった。治居(はるい)冨美(18)は待ちわびていた知らせに胸が高鳴った。(笠原次郎)

=年齢は当時、敬称略=

 従軍看護婦を描いた大嶽康子の著書「病院船」にあこがれ、生まれ育った礼文島を出たのは2年前。看護婦の養成所で学んでいた。

 「40人以上いた同期から選ばれたのは5人。名誉この上なく、うれしさでいっぱいだった」と振り返る。

 当時、男は前線を、女は銃後を守るのが使命だった。従軍看護婦は「女の兵隊さん」と呼ばれた。召集は絶対命令で、乳飲み子を残して戦地に向かった人もいた。

 両親と4人の姉妹、祖母が暮らす礼文島では、村長たちが「村の名誉」と喜び、表札の横には「出征兵士の家」と掲げられた。

   ◆

 だが、赤紙を受け取った興奮が冷めると、不安が忍び寄ってきた。「生きて帰れないかも」。選抜された誇りも消えていった。

 大好きだった祖母からは「ゲンキデユケヨ」と激励の電報が届いた。花と自然が豊かな島を思い出し、涙が止まらなかった。

 礼文島に帰郷し、家族に別れを告げる時間はない。召集令状が届いた3日後、札幌市内の宿舎に入った。

 そこへ、母(48)と9歳、13歳の妹が突然、姿を見せた。荒天で船は欠航していたが「召集者の親を送ってやろう」と特別船が出たからだ。荒波を越え、約10時間かかったという。

 久しぶりの再会だったのに、母と妹は船酔いで青ざめていた。母は好物を用意してくれていた。赤飯、のり巻き、ビスケット、生菓子…。手に入りにくい貴重なものばかりだ。

 食べる様子を笑って見つめる母と目を合わせられない。母の目も赤かった。

 宿舎では、4人で枕を並べて寝た。月がない暗い夜だった。母の温かい背中に顔を付け、両手は妹たちの手とつないだ。

 「これでお別れかも」

 4人のすすり泣きが部屋に響いた。

   ◆

 召集から6日目、札幌の日本赤十字支部に看護婦たちが集まった。

 婦長は33歳と、新婚3カ月の28歳。看護婦20人は16歳から25歳の独身女性だった。行き先は極秘で明かされず、札幌から函館行きの列車に乗った。

 国防婦人会の人たちが赤十字と日の丸の小旗を手に婦人従軍歌を歌ってくれた。

 函館に着く。連絡船が港を離れる。夕日が落ち、街並みが小さくなる。

 治居ら同期5人は声を上げて泣いた。治居は仲間を励ます言葉を何か言おうとしたが、波の音にかき消された。

【従軍看護婦】日中戦争が始まった1937年から太平洋戦争が終わった45年まで、日本赤十字社から海外の戦地や国内へ3万1450人が派遣された。殉職者は1120人。海外での活動場所は中国大陸が最も多かった。

   ■   ■

 兵庫県小野市の元養護教諭、治居冨美さん(95)は中国・上海で約3年間、従軍看護婦として働いた。多くの死に直面し、「生かされている命の尊さ」を知った。

 戦中戦後の混乱を生き、ふるさとの島に戻るまでの1028日間をたどる。

【特集リンク】ひょうご戦後75年

総合の最新
もっと見る

天気(9月28日)

  • 27℃
  • 20℃
  • 10%

  • 24℃
  • 18℃
  • 30%

  • 27℃
  • 19℃
  • 10%

  • 28℃
  • 19℃
  • 20%

お知らせ