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戦地への出発を前に仲間と写真に写る治居冨美さん(2列目左から6人目)ら=1943年4月14日、札幌市、日本赤十字社札幌支部(本人提供)
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戦地への出発を前に仲間と写真に写る治居冨美さん(2列目左から6人目)ら=1943年4月14日、札幌市、日本赤十字社札幌支部(本人提供)

 夜が明けようとしている。

 北海道の日本赤十字社にある看護婦養成所に通っていた治居(はるい)冨美(18)が戦地への召集を命じる「赤紙」を受け取って、まだ10日しかたっていない。

 1943年4月20日、広島港を出た数十隻の小舟の一つに治居も乗っている。櫂(かい)の音だけが聞こえる静かな海を進んでいく。

 沖で日本赤十字社の真っ白い病院船「サイベリア丸」に乗り換えた。

 その時、婦長が行き先を初めて教えてくれた。「上海」。南方よりは北海道に近い。うれしかった。

 潜水艇に先導され、3日後、揚子江(長江)を通って上陸した。トラックに乗り換え、乾燥した荒野をひた走る。

 途中、道路の両脇に土の小山が連なっていた。

 あれは何だろう。

 土の下に埋まっていたのは、数え切れないほどの中国兵の遺体だった。異臭が漂う。今、自分が最前線にいることを悟った。

 「動物のような扱い」に恐怖心が満ちてきた。

     ◆

 治居らは、中国戦線でも有数の規模を誇る「上海第一陸軍病院」に着任した。鉄筋コンクリート4階建ての本館と2階建ての病棟十数棟が連なる。看護婦は約700人。患者は最大で約4千人を収容した。

 治居らはまず、伝染病科の担当になる。赤痢、腸チフス、マラリア、結核などに感染した重症兵士たちの中を駆け回った。

 兵士たちは骨と皮だけになり、よろよろと歩き、目が死んでいた。支えてあげなければ、動けない男たちばかりだった。

 兵士から感染し、亡くなる看護婦もいた。だが、伝染病の恐怖を感じる暇もないほど忙しかった。

 「もしかかっても運命」。未明の勤務もあり、睡眠不足で歩きながら眠ることもあった。

     ◆

 戦場で負傷した兵士が送り込まれてくるのは、だいたい真夜中だった。

 泥まみれで意識を失った兵士の服を脱がせ、白衣を着せてベッドに寝かせる。意識がもうろうとしたまま母の名前を口にし、「家に帰る」と治居に泣きついてきた。

 「大丈夫よ、大丈夫」となぐさめたが、2、3日後には息絶える兵士が多かった。

 軍医は破傷風菌を除去するため、意識を失った兵士の手や足を切断した。

 目覚めた兵士は気も狂わんばかりだ。前線で恐怖のあまり精神がおかしくなり、戦わずして人間性を失った人もいた。

 治居の宿舎も機銃掃射で狙われた。それでも生き延び、「生死は運命」と割り切れるようになっていた。

 そうでなければ正気を保てなかった。=年齢は当時、敬称略=

(笠原次郎)

   ■   ■

 兵庫県小野市の元養護教諭、治居冨美さん(95)は中国・上海で約3年間、従軍看護婦として働いた。多くの死に直面し、「生かされている命の尊さ」を知った。

 戦中戦後の混乱を生き、ふるさとの島に戻るまでの1028日間をたどる。

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