「さようなら」敵地で終戦、渡された青酸カリを手に同期5人で涙

2020/08/15 11:13

戦争の記憶をたどる治居冨美さん=小野市市場町、くつろぎの杜

 兵庫県小野市の元養護教諭、治居(はるい)冨美さん(95)は太平洋戦争中、従軍看護婦として中国・上海に派遣され、約2年間、傷病兵の世話に明け暮れた。そして、戦況を何も知らされないまま、敗戦。敵地にいる彼女たちにとって、この日こそが最も恐ろしい一日になった。75年前の8月14、15日を再現する。 関連ニュース 「私の一言が母の命を奪ってしまった」自分を責め続けた14歳 米軍の少年兵をかくまい憲兵に連行された両親 熱線浴びた人「人間の姿ではなかった」 若い人に託す、75年秘めた被爆の記憶

 8月14日 
 深夜。日本赤十字社北海道支部の救護班として上海の陸軍病院宿舎にいた治居=当時(20)=は、婦長の震えた声で跳び起きた。
 「声を出すな。5分で自分の荷物をまとめ、全員、病院へ移動する。音を立てるな。慌てるな」
 いつもは冷静な婦長の顔が青い。「ただ事ではない」と直感した。
 戦況の悪化に伴い、治居たちは少数の患者を連れて上海の中にあるフランス租界(外国人居留地)に逃れ、租界内の病院で看護を続けていた。
 本当の戦況は何も知らない。ただ、日本が負けているとは思いもしなかった。
 だが、この日の夜はどうもおかしい。
 周辺では夜通し爆竹音が鳴り響き、怒濤(どとう)のような中国人の歓声が聞こえていた。

 いつもなら宿舎から5分で着く陸軍病院まで、移動に何時間もかかった気がした。そこで初めて、婦長から日本の敗戦を知らされた。
 婦長は自分に語るように、ゆっくりと話し始めた。
 「日本には帰れないと思う。死ぬ時は一緒に死のう。軍隊は頼りにならない」。そう伝えると、薬品の入った袋をさりげなく全員に手渡した。
 「とにかく大切にしまっておくように」。婦長は命じた。
 衛生兵たちは看護婦を守るために集まり、戦闘の準備を始めた。
 だれ一人として一睡もせず、夜が明けた。

 8月15日 
 正午。軍医や看護婦らがラジオの前に集まった。予告されていた天皇陛下の「玉音放送」を聞くためだ。
 だが、声は届かない。病院全館、静粛の中、ガーガー、ガーガーという雑音だけが響き渡った。
 隊長が説明した。
 「日本は負けた。敵国に在住する者には何が起こるか不明である。生きて、またどこかで出会えることを祈る」
 部屋に戻り、北海道班が集まった。婦長は、全員に渡した薬が致死量の青酸カリだと告げた。
 「中国の人に襲われたら、大和撫子(やまとなでしこ)として恥じないよう立派に死んでくれ」
 治居たちは、自分たちが置かれている状況を、やっと理解した。

 病院の近くでは、暴徒化した中国人が「日本人であれば全員殺す」と隊を組み、歩いていると知らされた。
 夜。病院の門を壊した暴徒が部屋の中を物色し始めた。治居はネズミのように布団に隠れ、息を潜めた。生きた心地がしなかった。
 暴徒は去った。フランス租界内にいたことが幸いしたようだった。

 治居は同期4人と部屋にいた。畳の上に、青酸カリの袋とコップに入った水。一番若かった看護婦が言った。
 「日本に帰れず、中国人に殺されるのなら皆で死んだ方がいい」。暴徒がまた来る、と恐れた治居も「死ぬことは国のためにもなるのでは」と思った。
 5人は正座し、「さようなら」と合掌する。涙があふれ、互いに見つめ合ったとき、婦長が扉を破って入ってきた。
 「お前たち、何をしているのか!」
 婦長は声を荒らげた。
 「まだ早い、死ぬ時は全員一緒だ。私の命を懸けて、必ず北海道に連れて帰る。今から日赤救護の根性を発揮せよ」と強く、優しく諭した。治居は夢から覚めたようだった。
 後日、従軍看護婦2人と衛生兵1人が青酸カリで自殺を遂げた、と聞いた。
   ■    ■   
 あの日から75年。95歳になった治居は小野市の施設で静かに暮らす。耳が遠くなり、最近の出来事も忘れがちになったが、戦争の記憶は鮮明だ。
 「戦争で兵士がたくさん死んでしまった。戦争はしたらあかん。世の中が狂ってしまう」
 穏やかな表情でそうつぶやいた。
(敬称略、笠原次郎)
【特集リンク】ひょうご戦後75年

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