敗戦、混乱の満州 報復、敵兵…周囲は全て敵「自力で守るしか」 帰国後も流転の日々
2020/08/18 06:50
満州・奉天時代の写真や地図を前に、戦中戦後の苦難を語る木村さん=明石市
日本が無条件降伏した1945年8月15日、満州など外地には数百万人の日本人が残された。支配者側だった日本人は、終戦を境に中国人ら現地人から激しい反撃を受けた。自衛しながら待ち望んだ帰国の日。しかし命からがら引き揚げてきた人々を待っていたのは、安住とはほど遠い流転の日々だった。兵庫県明石市に住む女性の証言から、当時を振り返る。(吉本晃司)
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明石市の木村節子さん(85)は、中国・大連市に生まれ、旧満州(中国東北部)の奉天で育った。父はカメラや写真機器卸会社の奉天支店長。戦闘機の写真撮影で関東軍と取引し、42年からは戦闘機製造の下請け会社を経営した。家族6人のほか書生2人も抱えていた。
「子ども4人にはみなクーニャン(手伝いの若い女性)が付き、ボーイさんが食事を作ってくれた。満州では裕福な家庭でした」
工場で満州人労働者(クリ)にかわいがってもらった。「母はクリにご飯をちゃんと食べているかと尋ね、食事をさせることもありました」と木村さん。日本人、中国人の分け隔てなく生活を手助けしていた両親の厚情が戦後、家族の命を救うことになった。
■「租界」で自衛
45年8月15日。駅へ水くみに行くと、関東軍の兵士に「日本が負けた。暴動が起きる。何をされるか分からない。早く家に帰れ」と言われ、慌てて帰宅した。
終戦直後の暴動は凄惨(せいさん)だった。倉庫や食料庫は破壊され、中国人と日本人が奪い合っていたが、関東軍は中国人だけを軍刀で斬り殺した。中国人を酷使した日本人が、おので一家全員殺されたという話も聞いた。
父はソ連軍に捕まり、シベリアに貨車で運ばれる途中に逃げた。18人が飛び降りたが次々と射殺され、隠れようとした民家でも殺された。父はかつて取引していた中国人の商売人にかくまってもらい命拾いした。奉天に帰ってこられたのは2人だけだったという。
終戦から2年近くの間、20~30軒で日本人だけの自衛地区「租界(そかい)」をつくり、木村さんも門番をした。周囲にいた現地人、ソ連軍、中国国民党軍、中国共産党軍は全て敵だった。
木村さんは「リンチに遭うから外には出ませんでした。髪は刈り上げ、顔を黒く汚して女であることも隠しました」と振り返る。生活に困り、子どもを中国人に売る親もいた。「中国人男性の愛人になるため、邪魔になる子どもの首を絞めて殺している母親も見た」
冬は氷点下30度になった。「通りには毎日のように凍死体と殴り殺された遺体があった。運ぶときに頭がちぎれて転がるのを見ても怖くなくなり、慣れで感覚がおかしくなっていった」
満州に残された日本人の送還を巡る中国と米国の協議を経て、木村さん一家は47年5月から引き揚げを始めた。引き揚げ船では伝染病が流行し、毎日遺体を海に流した。
■帰国後も流転
1週間で降り立ったのは京都・舞鶴。「中国で生まれ育ったからか、日本に帰ってきたという感慨はなかった。それよりも、一家で戻る家がなく、これからどこで暮らせばいいのかという心配だけがありました」
まず向かったのは三重県。奉天時代に最期をみとった肺結核の男性の実家へ遺骨を渡しに行き、住まわせてもらえないかと懇願した。三重に2カ月滞在し、父の元部下らのつてをたどって京都、名古屋、大阪と30回引っ越した。結婚した夫の実家が兵庫県佐用町で、今は娘夫婦がいる明石市に住む。
「内地の人は終戦直前、毎日のように空襲があり、大変な思いをされたと思う。でも国破れても国はあった。満州にいた私たちは終戦で国を失い、戦後も自分で自分を守るしかなかった。両親のように、みんなにやさしさを持って接していれば、争いごとはなくなるんじゃないでしょうか」