「牛」の埴輪、なぜ少ない? 「馬」は権威の象徴、一方…
2021/01/27 14:20
1897年に奈良県田原本町の羽子田遺跡から出土した牛形埴輪。全体像が分かる貴重な資料(田原本町教育委員会提供)
今年の干支(えと)「丑(うし)」について調べていると、兵庫県立考古博物館(播磨町大中1)の職員が興味深い話を教えてくれた。「古墳から見つかる出土品で、『牛形』の埴輪(はにわ)は少ない。『馬形』はいくらでもあるのに」。確かに、豪華な馬具を身に着け、立派なたてがみがある馬の埴輪はよく見かけるが、牛の埴輪の出土例は、兵庫県朝来市を含めて全国で数カ所しかない。牛も馬も古くから人の生活に身近な存在だったのに、なぜ差が生まれるのだろう-(門田晋一)
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「そもそも、昔の日本列島には牛も馬もほとんどいなかったかもしれない」と指摘するのは同館の中村弘学芸課長(54)。「邪馬台国(やまたいこく)」の記述で知られる古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、3世紀半ば(弥生時代末期)の日本には「牛馬なし」との記述がある。
牛馬が日本で広まったのは約200年後の5世紀半ば、古墳時代中期になってから。朝鮮半島から渡来人が農耕や干拓といった土木技術や、乗馬の風習を伝えた際に連れて来たとみられる。
牛馬がほぼ同じ時期に広まったのなら、牛形の埴輪が少ないのはなおさら気になる。中村課長は「古墳に眠る有力者は牛も馬も飼ったかもしれないが、そういう人にはやっぱり馬がぴったりですよ」と笑う。古墳は墓の役割以外に死者の魂がたどり着く「あの世」を表現したものという側面がある。埴輪はその世界観を描く重要な役割を担っているのだそうだ。
例えば円筒状の埴輪は、食事を入れたつぼと台を表す。家形であれば魂が宿る場所で、数多く並ぶ場合は有力者が住んだ宮殿を表す。また、災いを避けるため武具状の埴輪で防御を固め、あの世で身の回りの世話をするという人形もある。
一方、牛の埴輪は荷物の運搬などを担った有力者の所有物にすぎないが、馬の埴輪は権威の象徴。いわば、トラクターとスーパーカーのような関係で、馬の埴輪は力と権勢を表すために多く作られたというのだ。
牛が軽視されるのは、なんだかかわいそうだが、古墳時代後の飛鳥時代(6世紀末~8世紀初め)には、実際に牛が農地で力を発揮していた痕跡がある。兵庫県内では、淡路市の田井遺跡の田んぼに人と牛の足跡がくっきりと残り、丹波市の梶原遺跡や多可町の安坂・城の堀遺跡で、牛に引かせて田畑を耕す道具「唐鋤(からすき)」も発見されている。
県立考古博物館の中村課長は「遺跡を通して、古くから牛馬に人間の生活が支えられてきたことが分かる。干支をきっかけに、牛にも遺跡にも“もーっ”と興味を持ってほしい」と話す。
■全国で数例朝来に顔の一部
兵庫県内では1988(昭和63)年、朝来市の船宮古墳で牛形埴輪のかけらが見つかっている。見た目はクッキーのようだが、牛をかたどった埴輪としては日本最古で、牛の鼻と口部分だと確認されている。では、体はどこにあるのか? 同市教育委員会に聞いた。
担当者によると、船宮古墳は前方後円墳で、全長約90メートル、幅約85メートルもある。周濠(しゅうごう)を備え、学術性の高さから県史跡に指定された。
実は史跡に指定されると、調査できるのは必要な箇所だけに限られてしまう。つまり、同古墳にはいまだ牛の体や頭の部分の埴輪が残っている可能性があるそうだ。
牛の鼻の部分が見つかったのは、同古墳の後円墳から南西に約20メートル離れた堀の跡。もともと古墳の上に並べられていたか、脇の「造出」という儀式を行う場所にあって、何かの拍子に堀に落ちたときに鼻だけが取れたとみられる。
朝来市教委の担当者は「鼻が見つかったのは運が良かった。体が土の中に残っていると思えるのも、ロマンがありますよね」と話した。(門田晋一)