マイウェイ汀の物語 1・17から3・11へ(2)3歳で遺児

2021/02/16 11:30

父の形見の帽子をかぶり、故星野仙一監督に肩を抱かれる小島汀さん=2002年4月、甲子園球場

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 1995年1月17日午前5時46分。
 当時3歳だった小島(おじま)汀(みぎわ)(29)、4歳上の兄、両親が暮らしていた芦屋市津知町のアパートは全壊し、並んで寝ていた4人はその下敷きになった。
 幼かった汀に、揺れた瞬間の記憶はない。気がついた時には、母に抱きしめられていた。真っ暗な中で、母が「お父さん!」と叫ぶ。兄も叫んでいた。
 汀が外に出たのは、約3時間後。一番覚えているのは、血まみれになった母の顔だ。夕方に運び出された父謙(けん)さん(36)は、家具が頭に直撃していたらしく、帰らぬ人になった。
 このアパートでは6人が犠牲になり、隣に住んでいた兄の親友で小学1年の男の子=当時(7)=と、幼稚園児の女の子=同(5)=も亡くなった。
 どうして、お母さんはけがをしているの?
 どうして、こんなにぐちゃぐちゃな街にいるの?
 全然、分からなかった。
     ◇
 翌18日、汀は遺体安置所で父と最後の対面をした。
 その日のことは全く覚えていないが、汀と兄は夜に高熱を出したらしい。23日の火葬は、「衝撃が大きすぎるから」と、連れていってもらえなかった。
 そして、腰の骨を折る大けがをした母は、震災後すぐに入院した。汀は兄とともに、祖父が牧師をしていた近くの芦屋川教会で暮らすことになった。
 芦屋川教会は避難所になり、たくさんの人が集まっていた。国内外から駆けつけたボランティアが、汀の遊び相手になってくれた。
     ◇
 会えなくなった父との思い出をたどると、プールや銭湯に行ったり、バーベキューやたこ揚げをしたり。甘党で、ケーキやアイスクリームが大好きだった。
 何より、熱心な阪神タイガースファンだった。震災後、がれきの中から出てきたのは、縦じまの帽子。つばの裏に、フェルトペンで「猛虎命」と書いてあった。
 2002年、10歳になった汀は故星野仙一監督(当時)と対面がかなう。
 甲子園球場に遺児17人が招待され、汀は「お父さんの帽子とバットで応援します」とあいさつした。
 星野監督は応えた。
 「僕も生まれる前に父を亡くし、母と姉と頑張ってきた。とにかく負けるな。みんなも夢を持って、勇気を出して、前に進もう」
 その言葉は、汀の生きる糧になった。(中島摩子)
【バックナンバー】
(1)プロローグ
【動画】汀の物語 二つの被災地を生きる理由

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