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慰霊祭で体験を語る馬場章子さん=神戸市兵庫区
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慰霊祭で体験を語る馬場章子さん=神戸市兵庫区
「逃げるのに必死で、手を差し出すことができなかった」と話す長濱律子さん=神戸市灘区
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「逃げるのに必死で、手を差し出すことができなかった」と話す長濱律子さん=神戸市灘区

 まぶしい青空を複雑な思いで眺める人たちがいた。76年前の3月17日、同じ空を埋め尽くしたのは大量の米軍機だった。太平洋戦争末期の1945年に本格化し、8月の終戦までに8千人以上が命を落としたとされる「神戸空襲」。忘れがたい記憶を体験者が語った。

 「肩に焼夷弾の筒が刺さったまま逃げる女性を目の前で見たの。火をあげながら。今も忘れられない」

 長濱律子さん(92)=神戸市灘区=は声を震わせていた。

 女学生ながら、軍需工場に駆り出され麻袋を織る日々。一方で、英語教師だった父は「国賊」と呼ばれ、肩身の狭い思いをした。

 45年、米軍による無差別攻撃は激化。度々、空襲警報が鳴り、六甲山側から無数の焼夷弾が風にあおられて斜めに降ってくる日もあったという。

 「ザーザーと雨のような音やった」

 6月5日にも大空襲があり、焼夷弾の後部に取り付けられた信管が自宅に落ちてきた。家族と、六甲山のふもとにある防空壕へ。焼け死んでいく人たちの間をぬうようにして逃げた。

 「自分もこないなる」。必死だった。

 戦後は「生かされた」との思いが強く、アートフラワー作家や服飾品店オーナーなど「したいことは全部挑戦してきた」と長濱さん。「戦争はいけません。悔いしか残らへんからね」。語気を強めた。

     ◆

 空襲後の体験で心に深い傷を負った人もいる。

 13歳の春だった。

 馬場章子さん(89)=神戸市灘区=は当時、県立第三神戸高等女学校2年。神戸では最初の大空襲になった3月17日の翌日、学校に集められ、焼け跡の片付けを手伝うよう指示された。

 「(遺体の数は)そりゃもうたくさん。みんな昨日まで生きていたのに、と思いながら作業を続けた」

 手向ける花さえない一面の焼け野原に、燃えくすぶる人があちこちに重なっていた。同級生たちと、焼夷弾が刺さったままの遺体を見つけては「兵隊さん」に知らせたという。

 地下道では、親を亡くした子どもたちがぼろぼろの服を着たままでうずくまっていた。かける言葉も見つからず、渡せる食べ物もない。自分の両親は運よく助かったが、「あの子たちは私だったかもしれない。あのうつろな目が忘れられなくて」。目元を拭った。

 5月11日の空襲は下校中に発生。飛び込んだ防空壕では爆音が響くたび、近所のおばさんが「南無阿弥陀仏」と震える手を合わせていたという。

 馬場さんは3月17日、今年で50回目になる慰霊祭に出席するため、会場の薬仙寺に足を運んだ。

 「平和は当たり前じゃない。ここに来ると、改めてそう思います」(末永陽子、貝原加奈)

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