被爆者の言葉、次代に 神戸の元教諭、元同僚の手記を平和祈念館へ寄贈
2021/09/02 16:00
被爆者の手記を寄贈した桐藤直人さん=西宮市内(画像の一部を加工しています)
神戸市立中学校の教諭だった桐藤(きりふじ)直人さん(74)=兵庫県西宮市=が、被爆者である元同僚の手記を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)に寄贈した。「全く地獄もかくやと思われる、るいるいたる死体の山でした」-。それは、弟を亡くした元同僚が原爆投下直後の様子をつづったもの。桐藤さんは教壇を降りるまで、この手記をもとに原爆のむごさを生徒に説いてきた。(名倉あかり)
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寄贈したのは、県内の教員らが記した「平和教育のための脚本集」(1983年、兵庫県教育センター発行)。この中に、桐藤さんが執筆を依頼した元同僚男性の手記「いしぶみ」がある。
元同僚が旧制広島高(現広島大)2年=当時(19)=のころ、海軍工廠(こうしょう)へ動員された。体を壊し、爆心地から3キロメートルほど離れた自宅にいた45年8月6日、原爆が投下された。手記にはこう記されている。
「外は血だらけの乳児を抱えて、これも血だらけの母親らが右往左往していました。(中略)家のすぐ隣の道路まではことごとく灰になりました」
翌7日、建物疎開作業に出ていた弟の居場所を知り、爆心地から1キロメートル圏内の西練兵場で重傷の弟を見つけた。
「私は弟に『来たぞ、頑張れ』と言うと、弟は『死ぬもんか、死ぬもんか』とくり返しながら、『水をくれ、水をくれ』と言う。(中略)数分後に息を引きとりました。弟の死体は車に積んで帰り、琴の箱に入れて近所の公園で焼きました」
男性はその後、広島県尾道市の中学校で教師として働き、神戸へ。桐藤さんは30代の数年間、同じ中学校で働いたが、自ら被爆者だと告げることはなかったという。
経緯ははっきり覚えていないが、終戦から37年たった82年の夏休みの登校日、定年を控えた同僚が3年生約360人を前に被爆体験を語った。悲劇を当事者から聞いた生徒の一人は「口にも出したくないような事実を言葉少なく淡々と語られた」と感想を残した。
生徒に原爆被害の生々しい写真を見せれば学習への恐怖心が植え付けられ、日付を暗記させるだけでは意味がない。原爆を伝える授業に苦心していた桐藤さんは「被爆した本人がそこに立っている。過去ではない。被爆者本人の言葉の重みを生徒も私も実感した」と振り返る。
その後、勤務先が変わっても、同僚の被爆体験を印刷して授業で配布。なぜ、広島が標的にされたのか、なぜ子どもたちが多く犠牲になったのかなどを生徒が想像できるように話した。
同僚とは40年近く会っておらず、消息は分からない。年齢的に見れば他界していてもおかしくない。同僚の弟は当時、旧制広島二中(現県立広島観音高)1年で、全員が原爆で死亡したとされる。遺族の手記集「いしぶみ」(1970年、広島テレビ編)には、弟が亡くなった経緯が記されておらず、桐藤さんはずっと、このことが気になっていた。
「弟さんの記録を残したい」と思いが募り、今年3月に平和祈念館に寄贈。だが、裏を返せば、それだけ同僚が周囲に語ってこなかったということ。「手記や講演は同僚の心に大きな負担をかけたのかもしれない。形に残すのが本当によかったのか…」。桐藤さんの迷いは今も消えない。