9・11直後のNYで遺族支援「阪神・淡路の恩返しを」苦難越え今「障害者のために」
2021/09/11 05:50
バリアフリーの現状を伝えるウェブサイト開設に向け、打ち合わせをする山崎淑子さん(左)と川崎泰彦さん=東京都千代田区
2001年9月11日の米中枢同時テロ発生からきょうで20年。惨劇直後のニューヨークで、「阪神・淡路大震災の恩返しを」とボランティアに励む日本人女性がいた。神戸市東灘区で被災した後、ニューヨークで暮らしていた山崎淑子さん(61)。だが、その後の20年は苦難の連続だった。絶望の淵にあっても「震災やテロで亡くなった方の分まで、必死に生きなければ」と新たな目標に向かう。
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あの日の朝。飼い犬を抱いて動物病院に向かっていたとき、世界貿易センタービル(WTC)が火を噴くのが小さく見えた。
カフェに駆け込むと、人々がラジオを囲み「これって現実?」と騒然としていた。「第二のパールハーバー」という言葉も聞こえた。
山崎さんは出版社の米国法人副社長などを経て、当時はニューヨークでコンサルティング会社を経営。WTCに隣接するビル10階に事務所を構えたばかりだった。
一端、自宅に戻ったが、テレビに映し出された光景が阪神・淡路大震災と重なり、じっとしていられなくなった。家を飛び出すと、ほこりや灰をかぶった人たちが生気を失った表情で歩いていた。
山崎さんは1995年1月17日、神戸で震災を経験していた。当時、暮らしていた同市東灘区のマンションは倒壊は免れたが、ガスや水道が使えなくなり、近くの小学校であった炊き出しが心に染みた。
「生き残った自分に何ができるだろう」。その日のうちに米国赤十字でボランティア登録。翌日から9日間、犠牲者や行方不明者の家族のための支援センターで通訳などを務め、活動は神戸新聞でも取り上げられた。
◆
「9・11」は、その後も山崎さんの人生を翻弄(ほんろう)した。日本に戻り、インターネット商社を設立し東京で暮らしていた2005年、テロの災害援助金をめぐる事件にまきこまれた。身に覚えはなかったが、会社や財産だけでなく、大切に築いてきた「信用」も失った。
親には縁を切られ、友人も離れた。体調を崩して変形性股関節症となり、車いす生活になった。
だが、支えてくれる人もいた。苦難のなかで出会った川崎泰彦さん(63)と一昨年、結婚。ニューヨークで日本の伝統工芸品を販売するカフェを開こうと夢を語り合った。1級建築士の川崎さんが設計図を描いた。
ところが、今度は川崎さんがくも膜下出血で倒れた。婚姻届を出して16日目だった。一命はとりとめたが、後遺症が出て要介護度5に。それでも2人はへこたれなかった。
カフェの実現は先延ばしになったが、夫妻とも車いす生活になり、新たな目標ができた。世界各地を訪れ、バリアフリーの現状を伝えるウェブサイトを開設することだ。かつて旅館のバリアフリー化を手掛けた川崎さんの経験も生かしたい。
「テロも震災も、そして今も、周りの人の助けで生き延びられた。どんな苦境にあっても助け合える自分でいたい」と山崎さんは話す。(永見将人)