生き埋め、つないだ手が離れ… 娘の名前が刻まれた場所「いま何してるの?」

2022/01/17 06:55

東遊園地で、震災で亡くなった娘の朝美さんを思う大石博子さん=17日午前4時13分、神戸市中央区加納町6(撮影・鈴木雅之)

 追悼の場で夜を明かし、阪神・淡路大震災が起きた午前5時46分を迎えた。神戸市兵庫区大開通の大石博子さん(72)は、高校1年だった次女朝美さん=当時(16)=を失った。激しい揺れで文化住宅は倒壊し、隣で寝ていた母と子は下敷きに。2人がつないでいた手は、生き埋めの間に離れてしまった。それから27年。どれだけ寒くても、新型コロナウイルス禍でも、娘の名前が刻まれた場所に向かう。「やっぱり会いたいから」。そして、語り掛けた。「朝美ちゃん、来たよ。いま何してるの?」 関連ニュース 「じゃあ、またね」が最後の言葉 20歳の娘を亡くした男性「死ぬまでその悲嘆を背負う」 父救おうとする息子と、羽交い絞めで止めた男性 慰霊祭で25年ぶりに再会 生き埋めになったまま「子どもは?」と心配した妻 病院で告げられた死


 朝に生まれたから「朝美」と名付けた。近所の子どもたちと、缶蹴りをして遊ぶ活発な子。兵庫中学校ではバレーボール部で練習に励み、神戸女子商業高校(現・神戸星城高校)に進んだ。「にぎやかで、お笑いが大好き」だったといい、お気に入りはお笑いコンビの「千原兄弟」。将来の夢は幼稚園の先生だった。
 
 博子さんと夫、朝美さんと長女の4人が暮らしていたのは、神戸市兵庫区羽坂通の文化住宅の2階だった。6畳間に布団を3枚敷いて、真ん中の布団には博子さんと朝美さんが2人で寝ていた。

 震災前日の1995年1月16日。朝美さんは夜遅くまで勉強をしてから、先に横になっていた博子さんの布団に入ってきたという。夫は市場の仕事に行き、3人で寝ていた時、突然の揺れに襲われる。床が抜け、1階部分にそのまま落ちた。

 真っ暗で何が起きたか分からない。つぶれた家屋に埋もれて体が動かせないまま時間が過ぎた。博子さんはもうろうとしながら「朝美」と呼び、娘の手を握りしめていた。しかし、いつのまにか、その手は離れてしまう。3時間以上がたち、近所の人に助け出されたが、朝美さんだけが帰らぬ人になってしまった。

 「横にいたのに、助けられなかった」
 「手を離してしまった」
 博子さんはずっと悔やみ続けた。

 何年たっても、元気な顔が常に浮かび、涙が出た。「なんでこんなことに?」と問い、また悔いた。

 寒い日は、崩れた住宅から取り出した朝美さんの遺品のカーディガンを着た。「そばにいる気がするから」
 朝美さんが愛用していたお弁当袋に昼食を入れ、仕事に持っていった。

 10年がたち、20年がたち、朝美さんの姉の子ども(孫)が、亡くなった当時の朝美さんの年齢を超えた。孫は今年、成人式を迎えた。
 
 そうして時は流れても、「朝美ちゃん」と遺影に語り掛ける日々は変わらない。
 お墓参りには、ほぼ毎日行く。
「忘れることなんてできないし、これしかできないから」と博子さん。
         ◇
 そんな27年の中で励みとなったのが、NPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)」の活動だった。月命日の東遊園地の清掃に参加し、熊本地震や西日本豪雨の被災地を支援に訪れた。

 そしてなにより、同じ思いの遺族と出会った。毎年1月17日の前夜から東遊園地に集い、ストーブで暖を取りつつ言葉を交わし、ともに夜を明かすのが恒例になった。
 
 東遊園地は、お墓とも仏壇とも違う、特別な場所だ。朝美さんの名前が刻まれている地下の「瞑想空間」は「(亡くなった)みんなが寄り添っている」と思う。

 高齢化が進み、コロナ禍もあって、集う遺族の数は年々減っている。でも、博子さんは「体が動くうちは」と、今年も防寒し、マスクを着けて、16日午後から東遊園地を訪れた。
 半日以上を追悼の場で過ごす理由は「いてあげたいから」。真夜中から未明にかけ、朝美さんのことを思う時間が、静かに流れる。

 「忘 1・17」の文字にかたどられた灯籠に火をともし、午前5時46分を迎えた。
 
「27年は長かった。いや、早かった。なにより、朝美に会いたい気持ちが一番。それは27年間変わらない」
 揺らめく炎を見つめ、思いがあふれた。(中島摩子)
【特集ページ】阪神・淡路大震災

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