「母は最期の時、私の服を着てくれていました」 焼け跡で見つかった母、娘の「お下がり」で身元判明
2022/01/17 14:48
銘板の前で母の思い出を語る山神啓子さん(右)と陽菜さん=17日午前6時59分、神戸市中央区加納町6、東遊園地(撮影・吉田敦史)
母は最期の時、私の服を着てくれていました-。大阪府泉南市の会社員山神啓子さん(53)は、母の小林芙紗代(ふさよ)さん=当時(56)=を失った。神戸市中央区で新聞配達中、倒壊した民家の下敷きになり、猛火に襲われた。体は損傷が激しかったが、啓子さんのお下がりを着ていたことで、身元が判明。啓子さんは「とても仲良しで何でも話せた。一日たりともお母さんを忘れたことはない」と胸を詰まらせる。
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芙紗代さんは、父正雄さん(85)と神戸市中央区で新聞販売店を営み、啓子さんと兄を育てた。朝夕刊の配達、事務作業で働きづめでも、疲れを見せず、家事は完璧だった。
あの日、啓子さんは大阪市内の団地で、大きな揺れを感じた。テレビが映し出したのは、神戸の惨状。電話がつながらず、タクシーで実家に向かうが、がれきに遮られ、兵庫県尼崎市までしか進めなかった。
自宅に自転車を取りに戻り、途中で公衆電話から実家に連絡がついた。電話の先は、めったに出ない父。「お母さんが帰ってこない」といい、胸騒ぎだけが募った。必死で自転車をこぎ、神戸に向かう。阪神高速道路が倒れている。街は跡形もない。夜になってようやく実家にたどり着いた。
父は無事だったが、母の姿はない。数日後、実家のすぐ近くで、民家の焼け跡から母が見つかった。トレーナーとマフラーは端切れだけだったが、確かに啓子さんのお下がりだった。
家族に止められ、遺体を見ていない。だから、脳裏の母は笑顔のままだ。母は下敷きになった時、生きていたと近所の人に聞いた。助けられなかった後悔と、恐怖心から震災経験にふたをした。だが、長女陽菜(ひな)さん(21)が中学生になったころ、「震災のこと、おばあちゃんのこと教えてよ」と言われ、少しずつ語るようになった。
震災の2日前、「風邪ひかんように」と電話で気遣ってくれた母。新婚だった啓子さんに、「孫の顔が見たい」とも言っていた。孫を抱いてほしかった。子育ての相談をしたかった…。
悲しみの日から27年。気持ちの整理が、完全についたわけではない。啓子さんは、陽菜さんとともに神戸・三宮の東遊園地で母の銘板と向き合った。「孫はこんなに大きくなってんで。見届けてや」。陽菜さんも「大切なおばあちゃん。幸せだよ」と語り掛けた。(藤井伸哉)
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