77年前の神戸空襲で犠牲 発明王エジソン唯一の日本人助手 世紀を越え、直筆はがきの存在明らかに

2022/03/16 20:10

岡部芳郎さん(親族提供)

 世界的に有名な米国人発明家トーマス・エジソン(1847~1931年)にはただ一人、日本人の助手がいた。元船員という異色の肩書を持つ岡部芳郎さんだ。日本に戻った後もエジソンと連絡を取り合っていたが、77年前の1945年3月17日、米爆撃機B29による神戸空襲で亡くなった。身の回りの品も燃え、その人柄やエジソンとの交流をしのばせるものはほぼ焼失した。ところが昨年春、100年以上前に知人に投函(とうかん)した直筆はがきの存在が突然、明らかになる。インターネット社会が生んだ、数奇な巡り合いの経緯とは-。 関連ニュース 【写真】77年前の神戸空襲で犠牲 発明王エジソン唯一の日本人助手 世紀を越え、直筆はがきの存在明らかに 【写真】オークションサイトに出品されている戦争関連の資料 「戦争はいつも日常を奪う」 ウクライナ侵攻に姫路空襲体験者「胸が締め付けられる」

 「實際私程永く翁(エジソン)に接し師事してゐた日本人は他になく」「(帰国後も)色々間接直接に個人的に恩恵を蒙つてゐた事を身の面目榮譽と心得てゐる」
 エジソンが亡くなった1931(昭和6)年の雑誌「科學知識」には、岡部さんの寄稿が、8ページにわたって掲載されている。訃報に接し、その偉大な足跡を振り返るとともに、ニューヨーク近郊のエジソン研究所に勤務した6年間の思い出をつづっている。
 「1日に6時間寝れば十分だ」と話し、疲れたら研究所の木の床に横たわり、体を休めていたエジソン。好きな言葉は「better&cheaper(より良く、より安く)」だったこと。水たまりに張った氷の上をツルツルと滑り、「どうだ、うまいだろう」とちゃめっ気たっぷりに笑ったこと-。
 寄稿には、すぐそばで仕えた岡部さんだからこそ知り得たエピソードがあふれている。
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 岡部さんは1884(明治17)年に大阪で生まれ、幼少期に神戸に移った。船乗りを志し、山口の商船学校を卒業して機関士となる。24歳の時、最初の航海で盲腸となり、治療のために一人、寄港地のニューヨークに残ることになった。
 回復後、現地の特許弁理士事務所で働いて製図の技術を身に付けると、人づてにエジソン研究所へ転職。蓄音機や白熱電球を開発した「発明王」のもとで、電池の部品設計などに携わった。
 1914(大正3)年に帰国し、映画技師として女優松井須磨子の「カチューシャの唄」を手掛けるなどした。エジソンとは手紙のやり取りを続け、29(昭和4)年には、電球発明50年を祝う記念の絵はがきを制作している。
 その後、神戸・新開地で暮らし、外国船などを建造する鉄工所を経営したが、戦渦に巻き込まれる。市民団体「神戸空襲を記録する会」の資料では、45(昭和20)年3月17日の空襲によって60歳で亡くなったとの記録が残る。
 岡部さんの家族は生き延びたが、自宅にあった日記やエジソンゆかりの品は全て燃えた。残ったのは、和歌山の親戚宅にあった映写機とフィルム、写真2枚だけだった。
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 「日本で発行されているエジソンの伝記を見ると、『岡部芳郎』という名前が登場するんですよ。こんな有名人がおじいさんだと知って、『どんな人だったのだろう』と気になって」。岡部さんの孫、芳彦さん(48)が、祖父の足跡を調べ始めた経緯を説明する。
 東欧ウクライナの研究者として大学で教べんをとる傍ら、家族らからエピソードを聞き取ったり、資料を探したりしてきたものの、目立った手掛かりは得られなかった。
 ところが昨年3月、思いも寄らない形で、祖父直筆のはがきを目にすることになる。米国を離れた翌年の1915(大正4)年、滞在先の中国・天津から商船学校の同級生に宛てたものとみられ、「奥様によろしく」などと走り書きされていた。
 祖父の書いた文字を初めて見たという芳彦さん。その時の心境を興奮気味に振り返る。「感動しましたね。岡部芳郎という人物が浮かび上がってきて。ファミリーヒストリーの一部が明らかになったような気がしました」
 100年以上前に投函(とうかん)され、相手方にわたったはずのはがき。それがなぜ唐突に、芳彦さんの目の前に現れたのか。
 きっかけは、見ず知らずの人がインターネット上にアップした一つの投稿だった。
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 日章旗の寄せ書き5750円、海軍双眼鏡5250円、将校の冬衣1100円、陸軍軍隊手帳1000円-。大手オークションサイトには、戦時中の兵士のものとされる出品が大量に掲載され、次々に入札されていく。
 「この10年ほどで、出品数は3倍くらいに増えているように感じます」。30年ほど前から、旧日本海軍の資料を中心に収集する喜多村紀道さん(46)=千葉県銚子市=が明かす。
 出品数が伸びている要因は明確だ。戦争体験者が鬼籍に入り、遺品の処遇に悩む子や孫の世代が増えているため。親族がフリーマーケットアプリなどで直接売りに出す場合もあるが、喜多村さんによれば、依頼を受けて回収した業者などが、値が付きそうなものを選んで販路に乗せたとみられる出品が目立つそうだ。
 その結果、何が起こるか。親族の知らないところで、他人同士の取引によって、ゆかりの品が売買されていく-。
 岡部さんの直筆はがきも、まさにこのケースだった。
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 昨年3月、ある業者が出品し、喜多村さんが購入した戦前の絵はがきの束に、「岡部芳郎」が差出人の1枚が含まれていた。同じ宛名の手紙がまとまっていたことから、この人物の家族経由で市場に流れたとみられるが、詳しい経緯は分からない。
 喜多村さんは、ネット検索で岡部さんの素性を知った。そして、宛先の人物が岡部さんの商船学校の同級生であることを突き止め、文面に出てくる人名などを検討した結果、岡部さん本人の直筆と断定する。
 その後、戦争の実相を広く伝えるために活用する自身のツイッターに「エジソンの助手をつとめた人」と付記してはがきの写真をアップした。この投稿を見た一人が、たまたま岡部さんの孫、芳彦さんの知人だった。
 この知人から、はがきの存在を伝えられた芳彦さん。喜多村さんとメッセージを交わし、画像データを送ってもらったことで、祖父の直筆に初めて触れることができた。
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 「現代ならではの出来事。100年以上前のはがきがよく保存されていたし、よく発信してくれたと思う」。一連の経緯を踏まえ、芳彦さんは戦時資料のネット売買を肯定的に受け止める。
 喜多村さんも同様だが、一方で「売る側、買う側の倫理観が問題になってくる」とも話す。岡部さんのはがきを投稿したツイッターについても、収集した資料の画像などをアップしているが、持ち主の家族の名前や住所など、迷惑がかかるような情報は出さないよう心掛けているという。
 では、専門家はどう見ているのか。
 国文学研究資料館(東京)の加藤聖文准教授(歴史記録学)が、その背景を指摘する。「日本国内の博物館などは、近現代史専門の学芸員がいないことなどを理由に戦時資料の寄贈を断る施設が多く、行き場を失った品がネット市場に流れているのだろう」
 ネットでの取引が普及した結果として、うずもれたままだったり散逸したりしていたはずの資料を、幅広い層が共有できる利点は生まれた。だが、入手した軍服を着て外出したり、資料にゆがんだ解釈を加えて発信したりするなど、戦争の意味や遺品の持つ重みを理解していないような使われ方も散見されるという。
 加藤准教授が強調する。「戦時中の資料にとって、ネットの普及はもろ刃の剣。気軽に手に入るからといって、単なる『モノ』として扱われてしまうと、存在意義が失われてしまいかねない」
(小川 晶)

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