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「年を重ねるとともに、悲しみは膨らんでいった」と話す菅尾美鈴さん=神戸市灘区
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「年を重ねるとともに、悲しみは膨らんでいった」と話す菅尾美鈴さん=神戸市灘区
菅尾吉崇さん(提供写真)
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菅尾吉崇さん(提供写真)

 2005年に起きた尼崎JR脱線事故で長男を亡くした神戸市灘区の菅尾美鈴さん(73)は、兵庫県尼崎市の事故現場で営まれた追悼慰霊式に参列し、静かに目を閉じた。1両目で事故に遭い、傷ついて亡くなった息子を抱きしめられなかった「あの時」がよみがえる。面影を追い、鉄道の安全を願い、必死に生きた母の歩みを、これまでの言葉と共にたどる。

 川西市に住んでいた長男で会社員の吉崇さん=当時(31)=は、出勤のため川西池田駅から快速電車の1両目に乗り込んだ。午前9時18分、脱線した電車はマンションに激突。美鈴さんは、息子の携帯電話にメールを送り続けた。

 「待ってるから。必ず生きて帰ってきて」。しかし、翌26日早朝、吉崇さんは運転席の後ろから遺体となって運び出された。

 安置所で吉崇さんは、頭蓋骨や骨盤を損傷し、裸で横たわっていた。美鈴さんは「触って動かしたら、(吉崇さんは)痛いかもしれない」と思った。最愛の人を抱くことはできなかった。

 27日夜の通夜では「憤っても息子は帰ってきません」と語った。それからは、果てのない悲しみとともに「なんで、こんなことに?」と問い続けた。四十九日法要の前には「区切りではなく、竹の節みたいなもの」と話した。

 事故1年を前に、JR西日本が遺品のおたき上げを計画すると、「死がまだ自分の中に入ってこない」と心境を明かし、留学先に送るみたいと言いながら、靴や背広、好きな紅茶、バレンタインのチョコレートなど、段ボール箱二つ分を詰めた。「吉崇のためにしてあげられることがあるのが慰めになる」と思えた。

 その頃から、死者の数と同じ107羽の折り鶴が1枚の和紙でつながった「連鶴」作りに取り組んだ。息子は一人ではなく、みんなと一緒にいる-。そう考えて手を動かすと、心が穏やかになるのを感じた。

 発生から5年を前にした10年3月、吉崇さんの遺骨を桜の木の下に埋葬した。神戸市北区の霊園が手掛けた樹木葬で、ここなら安らかに眠れると思った。「つらいけれど区切りにしたい」。吉崇のそばに行く時まで、頑張って歩いていくと心に決めた。

     ◇

 11年には、JR西の役員や社員ら約100人を前に講演した。「安全で安心な愛される鉄道に」と声を絞り出した。

 そして13年、神戸新聞に手記を寄せた。

 「心優しかった息子の、優しい笑顔を心の宝に、現実を穏やかに受け入れることに、心励まし、心なだめながら、息子の代わりに笑顔を心掛けて歩く日々。その陰で、静かに涙がほおを伝います」

 死を受け入れようと思っても、年月が過ぎても、悲しみは消えなかった。56歳で吉崇さんを失った美鈴さんは、古希を迎えた19年の取材に「悲しさに耐えられなくなっている」と吐露した。

 仕事をしながら1人で暮らしているが、体力が低下して「もう頑張れない」と考えることが増えた。「4月25日までは」と自分を奮い立たせてきた。

 迎えた命日。事故現場では、3年ぶりに追悼慰霊式が開かれた。「息子の死に納得できる答えは得られず、悲しみを携えての17年だった」と美鈴さん。

 今も消えないのは「抱きしめてあげたかった」という思い。それでも「つらく悲しく、寂しくても、心の中に吉崇を抱いて、もう少し歩いていこう」と考えている。(中島摩子)

【特集】尼崎JR脱線事故

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