<託す声~胎内被爆者と若者たち>(上)原爆投下の日、母が見た地獄
2022/08/02 05:30
母の被爆体験をもとに胎内被爆者としての手記をつづった副島圀義さん=芦屋市平田町(撮影・中西幸大)
「私は、広島に原爆が落とされた二週間目に生まれました」。そう始まる手記がある。
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書いたのは、兵庫県芦屋市平田町の副島圀義(そえじま・くによし)さん(76)。母親のおなかの中で原爆に遭った胎内被爆者の一人だ。
手記は、原爆胎内被爆者全国連絡会(広島市)が2020年12月に編んだ本に収められている。
本のタイトルは「生まれた時から被爆者」。病気や偏見、差別に直面してきた胎内被爆者らが47本の手記を寄せた。
本は昨年夏から今年にかけ、英訳作業がなされた。取り組んだのは関西学院大(兵庫県西宮市)の学生を中心に全国10大学の45人。副島さんの文章も翻訳された。
「I was born two weeks after the atomic bomb was dropped on Hiroshima」
英訳本の電子書籍化の準備が進められる中、今年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用までちらつかせた。
副島さんの頭の中で、平和を願って歌い継がれてきた曲「原爆を許すまじ」がよみがえったという。
♪ふるさとの街やかれ 身よりの骨うめし焼土(やけつち)に~
♪三度(みたび)許すまじ原爆を~
副島さんは言う。
「77年前、広島、長崎で何があったのか。手記の英訳が世界の誰かの目に触れて、『核兵器はあかん』という種まきになれば」
◇
副島さんは「直接、原爆投下後の地獄を見たわけではない」。だが手元には兵庫県原爆被害者の会(現・兵庫県原爆被害者団体協議会)の代表を務め、2006年に亡くなった母まちさんの被爆体験記があった。
副島さんは母が書き残した体験記を繰り返し読み、それを引用する形で文章をつづった。
1945年8月-。
副島さんの父吉雄さんは召集され不在だった。妊娠10カ月の大きいおなかを抱えたまちさんは、幼い子ども4人と吉雄さんの妹2人とともに広島市南千田町(現・中区南千田西町)に暮らしていた。
6日午前8時15分。自宅が稲妻のような黄色い光に照らされる。爆心地からは約2・5キロ。まちさんは体全体に衝撃を受け、いっとき気を失った。
家族は崩れかけた家からはい出し、避難先に決めていた河川敷に向かうが、途中で子ども4人のうち2人がはぐれてしまう。まちさんは2人を捜すため、爆心地に近づいていった。
「煙に追われて逃げてくる人の方向に進みました。どの人も血まみれで半分裸でした。ちぎれた服がかろうじて体にぶら下がっているだけで手足の皮膚はただれた肉と共に剥(は)げていました。火が迫っていました」(英訳された手記より)
傷ついた人たちは「苦しいよう」「熱いよう」とつぶやき、一歩二歩と歩いて目の前でガクッと倒れた。まちさんはそれ以上進むのをあきらめ、負傷者でごった返す河川敷に戻った。
「先刻からお腹の痛みがシクシクと続いていたのが、急にハッキリと痛み出しました。どうしよう、今出産が始まってもどうすることもできない」
まちさんは絶望した。
「万事休す」
◇
戦後77年の夏。被爆者が次世代に託す声と、それを発信する若者の姿を描きます。(中島摩子)
【胎内被爆者】母親の胎内で被爆し、最年少の被爆者といわれる。被爆者手帳の交付対象は、広島では1946年5月31日まで、長崎では46年6月3日までに生まれた人。厚生労働省によると、胎内被爆者は全国で6774人(昨年3月末)。兵庫県は今年3月末時点で140人。妊娠初期に強い放射線を浴びた影響で、頭囲が小さく、知的障害がある原爆小頭症の患者もいる。