沖縄戦、与えられたのは竹やりと自決用の青酸カリ 「遺体を見ても何も感じない精神状態」

2022/08/15 05:30

沖縄戦の惨状の記憶を語る三枝利夫さん=兵庫県佐用町上三河

 戦争を肌で知る人が年々減っていく。一方で、ロシアのウクライナ侵攻に伴い、国際情勢が緊迫の度合いを増す。きょう15日、77回目の終戦の日。あの時代を生きた兵庫の人々に、話を聞いた。戦争で何が起こるのか、改めて考えるために。 関連ニュース 「さようなら」敵地で終戦、渡された致死量の青酸カリ手に同期5人で涙 「19歳なんて、まだ子どもやのにな」 自身で書き残した「遺書」を手に、涙する宮司 【写真】沖縄戦終結後、収容施設で遊ぶ子どもたち。「ひめゆり学徒隊」にいた女性が見守る


 池に3人の死体が浮かんでいた。腐乱し、強い異臭がした。その池で水をくみ、飲んだ。
 「正常な感覚だったら見ることはできなかったと思う。もう何も感じない精神状態でした」
 20万人以上が犠牲となった沖縄戦を、三枝利夫さん(94)=兵庫県佐用町=は海軍の整備兵として経験した。当時、17歳。既に整備する飛行機はなく、急造の陸戦隊となった。銃は与えられず、竹やりと手りゅう弾、自決用の青酸カリを配られた。
 「住民は守ってくれると信じていた。でも竹やりで守れるはずがない。情けなかった」と肩を落とす。
 小禄飛行場(那覇市)の守備についたが、米軍の圧倒的火力の前に部隊は壊滅。三枝さんらは命からがら脱出した。途中、小隊長、戦友が死んだ。砲爆撃の中、約10日間さまよった。軍民混在の戦場には死体が散在していた。
 「移動は攻撃がやむ夜。足に何か絡みついたと思ったらご遺体でした。兵隊だったか、住民だったか…。思い出せない」。県民や仲間を救えなかった後ろめたさから、今も沖縄に足を向けて眠れない。
 たどり着いた摩文仁(糸満市)の壕。少女らが負傷兵を手当てしていた。三枝さんは握り飯をもらった。10日ぶりの白米だった。「汚れたふんどしも洗ってくれた。もし会えるなら、感謝の言葉を伝えたいが…」
 戦後、ひめゆり学徒隊の多くが軍と行動を共にし、犠牲となったことを知った。「師範学校の生徒さんもいた。平和なら家族と過ごし、教師になる夢を果たせた。戦争は若い人の将来を奪う。罪深い」(津谷治英)

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