「東洋一」と称された神戸市電、高架橋に名残 JR神戸駅近くに「世紀の大工事」の痕跡

2022/11/23 11:15

JR神戸駅から三ノ宮方面、多聞通りをまたぐ高架橋。一部にだけ梁が架かっているのが分かる=神戸市中央区

 JR神戸駅(神戸市中央区)の東、多聞通り(中央幹線)を歩く。JR神戸線と交差する辺りの高架橋で、ある部分だけ柱の構造が異なることに気づいた人はいるだろうか。高架橋には東から番号が振られているが、「324」「325」と記された部分だけ、橋脚の真ん中に梁(はり)が渡されている。なぜ、ここだけ形状が違うのだろうか? 調べてみると、昭和初期に手がけられた「世紀の大工事」の痕跡だった。 関連ニュース 【写真】神戸市電のクロスシート。「東洋一」と呼ばれた理由の一つとされる 路面電車なのにクロスシート!?「東洋一」と呼ばれた理由 【写真】広島電鉄に移籍し、今も活躍する旧神戸市電


■神戸の街の進展に伴い
 その昔、JR神戸線(東海道本線)は地平を走っていた。この辺りは西国街道が通っており、1874(明治7)年、大阪~神戸間に官営鉄道(省線)が市内を東西に貫く形で建設された際、分断される街道のために木造の跨線(こせん)橋「相生橋」が架けられた。「川がないのに橋がある」とうたわれ、日本で初めての木造跨線橋だったという。その後1889(明治22)年には鉄製に架け替えられた。1910(明治43)年に神戸電気鉄道(後の神戸市電)が開通し、橋の上を通って三宮方面と兵庫区方面とを結ぶようになった。
 神戸市交通局が路面電車を受け継いだのは1917(大正6)年のことだ。神戸の市街地化の進展に伴い、省線は都市を分断する存在となり、市民の間からも立体交差化を望む声が大きくなってきた。そこで、省線の高架複々線化計画が浮上する。当時の神戸市は、高架は市街地の分断を永久化すると反対し、地下化を申し入れたが、地下トンネルの建設には神戸市にも多額の費用負担が生じるため断念したという。そして、灘~鷹取間の高架による複々線化が決まり、1926(大正15)年に着工された。
■影響考え準備に3年も
 省線が高架になる以前、神戸市電は、滝道、相生橋、湊川、御幸の市内4か所で省線を跨線橋でまたいでいたが、高架線の下をくぐる切り替え工事が実施されることになった。工事は当初、1929(昭和4)年に計画されたが、実際には1931(昭和6)年10月9~10日に一斉に行われた。電車の運休などの影響を最小限にとどめるため、さまざまな準備の期間におよそ3年を費やしたという。
 切り替え当日、当該の場所では電車は一時運休し、くだんの相生橋は10日午前0時から工事が行われた。乗客はバス代替輸送を利用するか、徒歩で移動したそうだ。切り替え工事は4か所すべてで無事終了し、相生橋は姿を消した。当時の新聞でも「人馬、自動車、市電の通行を一夜のうちにやってのける市電跨線橋の切り替え」と報じられ、大いに話題を呼んだ。沿道の家々には国旗が掲げられ、神戸市も大倉山から花火を打ち上げるなど、「世紀の大工事」の完了を祝ったそうだ。
■名残がある理由は
 さて、冒頭の高架橋の梁の「タネ明かし」だが、ここは市電の仮線路が設けられた部分だった。高架切り替えの準備工事として、湊川神社側からの市電の線路を南に振って仮線路として高架橋の梁の部分に設け、元町商店街側へと通したのだ。
 切り替え当日は10日午前1時半ごろ、省線の最終列車通過後、仮線路を除去し、省線の新高架上に軌道を敷設した。その後、地上部分で市電の線路をつなげる作業が実施された。工事は無事完了し、省線、市電ともに10日始発から開通できたという。そして、省線の橋桁の下に、仮線路の名残を伝える橋脚(梁)が残されたというわけだ。なお、相生橋の西詰めにあった兵庫県の里程元票は相生橋と同時に撤去され、現在は西元町のきらら広場に移されている。
■廃止後、車両の一部は広島へ
 「東洋一」と称された神戸市電は、1971(昭和46)年3月、この相生橋付近を含む三宮~神戸駅前~和田岬~板宿間の路線が廃止され、その歴史にピリオドを打つことになった。全線廃止から半世紀余り。いまや相生橋の名残は「相生町」の町名にしのぶしかない。ただ、廃止後の神戸市電の車両の一部は広島電鉄に売却された。実は広島にも、原爆ドームのすぐ近くに「相生橋」がある。あの忌まわしき原爆投下で米軍がこの橋を目標にしたともいわれている。製造から80年以上を経た今も、旧神戸市電が、現役バリバリで走り続ける勇姿に、深い感慨を覚える市民も少なくないだろう。(長沼隆之)

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