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今季の開幕を控え、神鋼灘浜グラウンドでプレシーズンマッチに臨む神戸製鋼の選手たち=6月15日、神戸市東灘区
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今季の開幕を控え、神鋼灘浜グラウンドでプレシーズンマッチに臨む神戸製鋼の選手たち=6月15日、神戸市東灘区
震災後、復旧途上の神鋼灘浜グラウンドで練習する選手たち=1995年4月
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震災後、復旧途上の神鋼灘浜グラウンドで練習する選手たち=1995年4月
神戸新聞NEXT
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 「鉄の男たち」のホームは、神戸市臨海部の工場地帯にある。神戸製鋼灘浜グラウンド。1989年から始まる神鋼の日本選手権7連覇は、ここから生まれた。

 「僕にとっては戦場、ですかね」

 95年から2年間、主将を務めた堀越正己(50)=現立正大監督=はそう振り返る。早大から入社した91年当時、平尾誠二や大八木淳史らをはじめ、日本代表クラスがひしめいた。全体練習は週3回と少なかったが、常に張り詰めた厳しさがあった。身長160センチの小柄なスクラムハーフは「恐ろしいところに来たなと。競争が激しく、どこのチームよりBチームとやるのが一番嫌なくらいだった」。熾烈(しれつ)なポジション争いが黄金期の基盤となった。

 95年1月15日、新日鉄釜石の記録に並ぶ7連覇を成し遂げた2日後、阪神・淡路大震災が発生。灘浜グラウンドは液状化現象で亀裂から泥水が噴き出し、練習場所を失った。そんな中、堀越は主将に指名された。震災で本社は全壊。選手たちの勤務地は、大阪や神戸、加古川などに散らばった。堀越ら主力はワールドカップ南アフリカ大会への出場もあり、「みんなには『自分でやってくれ』と言うしかなかった」。

 灘浜が全面復旧した同年秋、堀越はチームの体力不足を痛感し、走力を重視した練習を提案したが、ヘッドコーチの平尾の言葉は「技術があれば7割の走力で足る」だった。迎えた翌96年1月の全国社会人大会準々決勝でサントリーと引き分け、未到のV8の夢はついえた。「ただ走れば良かったという訳ではないが、意見を譲ってしまい、連覇できなかったことに主将として責任しか感じていない。すごく長い1年だった」

 5年後に日本一に返り咲いたが、2003年にトップリーグ初代王者に輝いて以降、長いトンネルに入った。昨季、総監督として再建を託された元ニュージーランド代表コーチのウェイン・スミス(62)は、会社やラグビー部の栄光と苦難の歴史を見つめ直した。NZ代表が先住民マオリ伝統の舞「ハカ」を踊るように、ルーツを重んじることで一体感につなげた。

 チーム再生の象徴となったのが、震災から2カ月半後に再稼働し、復興のシンボルとなった神戸製鉄所(神戸市灘区)の第3高炉だった。昨春、解体工事中の高炉跡地を訪れ、耐火レンガを持ち帰った。「高炉の火を引き継ぐ」との意味を込め、灘浜グラウンドは「第3高炉」と命名された。

 18大会ぶりの日本一奪還で名門復活の凱歌(がいか)を上げた神鋼。元NZ代表で共同主将のアンドリュー・エリス(35)は今月15日、灘浜での練習試合後の円陣で、連覇に懸ける熱い思いを高炉内の高温にちなんで言った。

 「1300度でやろう」

=敬称略=

(山本哲志)

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