但馬

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フランス人鉱山技師コワニェ(朝来市提供)
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フランス人鉱山技師コワニェ(朝来市提供)
五代友厚(国立国会図書館蔵)
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五代友厚(国立国会図書館蔵)
中江種造の銅像=豊岡市泉町
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中江種造の銅像=豊岡市泉町
コワニェが住んだとされる「一番館」の写真。奥の「二番館」は、鉱山技師ムーセが住んだと推測される(朝来市提供)
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コワニェが住んだとされる「一番館」の写真。奥の「二番館」は、鉱山技師ムーセが住んだと推測される(朝来市提供)

 明治政府のお雇い外国人第1号として生野鉱山(兵庫県朝来市生野町)に赴任し、今年で来日150年となった、「日本鉱山の近代化の父」とも言われるフランス人鉱山技師コワニェ。今も朝来市などに残る建物や文献などからは、その厳格な性格や交友関係、暮らしぶりなどが浮かび上がる。(長谷部崇)

 ■後の「鉱山王」とも深い関わり 仕事に厳しい一面も

 文献をひもとくと、コワニェは、後に「鉱山王」と呼ばれた実業家の五代友厚(1836~85年)、中江種造(1846~1931年)の2人とも深い関わりがあったようだ。

 豊岡市泉町のロータリーに銅像がある中江種造は岡山や徳島、熊本などの鉱山を経営し、巨万の富を築いた。大正期、故郷・豊岡の上水道建設に多額の私財を投じたとして、今も遺徳をたたえる「水道まつり」が毎年開かれている。

 豊岡市史によると、中江は1868(明治元)年、コワニェに随行して生野鉱山に赴き、鉱山学を研究。翌69年にコワニェの助手となり、70年からは別のフランス人技師について採鉱冶金術を学んだとされる。

 コワニェは67(慶応3)年に薩摩藩の招きで来日しているが、これには薩摩藩士で後に大阪商法会議所初代会頭となる五代友厚が、深く関わっている。

 五代は65年に薩摩藩の訪欧団の一員として遊学。この時、藩に対して欧州から優秀な鉱山技師を雇うよう提言し、結果としてコワニェに白羽の矢が立ったとされる。68年、明治新政府とコワニェは大阪で契約を結ぶが、ここでも大阪府判事として大阪にいた五代の関与が指摘されている。五代も実業家に転身後、半田銀山(福島県)など全国の鉱山を経営した。

 なお、コワニェの「お雇い料」は月給800円。今の年収に換算すると1億円前後になるとみられ、破格の契約だったようだ。「生野史」は「コワニー(コワニェ)は厳格な性質で、為に総スカンを喰って居た」「彼が来ると皆密に他の入り口から逃げ出すといった有様だった」などと記しており、仕事に対しては人一倍厳しかった人柄だったことがうかがえる。

 ■鉱山付近の官舎で最も立派 コワニェの住んだ「一番館」

 「朝来市の近代化遺産調査報告書」によると、生野鉱山では、コワニェをはじめ、銀の馬車道を設計した義弟のシスレー、鉱山技師ムーセ(ムーシェ)ら、1868(明治元)年~81年に計24人のフランス人が雇用された。

 72年には鉱山近くに5棟の外国人官舎が建てられており、コワニェが最も立派な「一番館」に住んだとされている。一、二番館は白口川と市川の合流点付近にあったとされ、当時の写真が残る。

 邸宅の1、2階をぐるりと囲むベランダの列柱にはアーチ状の装飾が施され、敷地も広大だ。奥に写る平屋の二番館は、後に朝来市佐嚢へ移築された旧神子畑鉱山事務舎(ムーセ旧居)で、比較すると一番館がより大きかったことが分かる。

 一番館は社交場としても使われたとみられるが、「生野銀山町物語」によると、大正時代には住人もおらず「お化け屋敷」と呼ばれ、人知れず朽ちていったという。「明治以降の生野鉱山史」は「神戸に残る異人館に比べ遜色なく、建築年代を考えれば更に文化的価値高く、今更かえらぬことながら惜しみても尚余りある」と記している。

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