但馬

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魚連は竹の画の名手として、江戸まで名前が知られたという=生野書院
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魚連は竹の画の名手として、江戸まで名前が知られたという=生野書院
石川伊兵衛魚連=生野書院
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石川伊兵衛魚連=生野書院
鷹取の石炭山の坑道図=生野書院
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鷹取の石炭山の坑道図=生野書院

 播磨国神西郡森垣村(今の兵庫県朝来市生野町)の石川家4代目当主で、幕末に「鷹取の石炭山」(今の神戸市須磨区)で石炭採掘を手がけた石川伊兵衛魚連(1812~70年)を紹介する企画展が、朝来市生野町口銀谷の生野書院で開かれている。石炭山の坑道図や採掘状況を示す記録、魚連が得意とした竹の画など約30点を展示する。12月16日まで。(長谷部崇)

 茨城大学人文社会科学部の添田仁准教授によると、幕末の兵庫は、幕府直轄港として重視された。安政五カ国条約で開港予定地となったため、近場で石炭を採掘し、蒸気船に安定して供給する仕組み作りが必要だったという。

 石川家は、広大な田地や山林を所有した大地主で、精錬の燃料となるまきや炭、労働者の食糧などを生野銀山に提供。採掘された銅を大坂まで運ぶ「御用銅問屋」、幕府の役人が泊まる「本陣」でもあった。

 魚連は1836(天保7)年、24歳で家督を継ぎ、57(安政4)年、大坂谷町代官に石炭採掘を願い出て、現在の神戸市須磨区の妙法寺川上流にあった車村や妙法寺村で、石炭事業に着手した。生野から山師や商人、庄屋、採掘を行う労働者らを連れていって作業を進めたという。

 展覧会では、そんな魚連の日記や石炭関係の資料を、時系列に沿って展示。古文書には解説も添えられている。これらの資料によると、魚蓮が採掘を始めると、幕府の買い取り量が当初の見込みからほど遠く、大量に余った石炭を売りさばく羽目になったという。さまざまな人と掛け合った記録の中には、神戸海軍操練所の勝海舟から「掘りためた石炭は使用しません」と拒否されたエピソードも残されている。

 当初は苦難続きだった石炭事業だが、幕府と西南雄藩の関係が悪化し、幕府が西日本から石炭調達しにくくなると、状況が好転した。66(慶応2)年、幕府は本格的な石炭山の開発に着手し、「御用石炭」として恒常的に買い上げる仕組みを作った。鷹取の石炭採掘状況を記した資料によると、百斤ごとの買い上げ単価は当初銀2匁8分だったが、金1分(銀15匁)まで増えたという。

 一方で67年、幕府の軍艦が鷹取の石炭を燃料として大坂湾を周遊した実験では、出航早々に現在の神戸市の御影浜で座礁。石炭の品質が問われる結果になった。さらに大政奉還で事業は実質的に行き詰まり、石川家は石炭事業を縮小していったという。展示資料を見れば、そんな幕末の神戸と生野との関わりを知ることができる。

 午前9時半~午後4時半。入館無料。月曜休み。TEL079・679・4336

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