但馬

  • 印刷
生野鉱山の閉山式であいさつする伊藤真一郎さん=1973年3月22日、朝来市生野町口銀谷、協和会館(伊藤さん提供)
拡大
生野鉱山の閉山式であいさつする伊藤真一郎さん=1973年3月22日、朝来市生野町口銀谷、協和会館(伊藤さん提供)
伊藤真一郎さん
拡大
伊藤真一郎さん

 日本有数の大鉱山として近代化を支えた生野鉱山(兵庫県朝来市)は1973(昭和48)年3月末、閉山した。飾磨港(姫路市)まで続く「銀の馬車道」は日本遺産にも認定されたが、閉山から46年が過ぎ、鉱山全盛の時代を知る人々も高齢になっている。閉山当時、三菱金属鉱業生野鉱業所で社員組合委員長だった伊藤真一郎さん(89)=市川町=に半生を振り返ってもらい、鉱山とともに生きた人々の暮らしをたどる。(聞き手・長谷部崇)

     ◇

 僕のおやじは生野鉱山の坑夫でした。僕も18歳で三菱鉱業(後の三菱金属鉱業)生野鉱業所に入社し、閉山まで26年間、生野鉱山一筋で働きました。

 閉山式は73年3月22日、「協和会館」という鉱山の娯楽施設で開かれました。歌舞伎や宝塚歌劇も来たホールです。社長以下重役がそろって出席し、鉱山や生野町、県、下請け企業からも人が集まり、会場はいっぱいでした。

 僕も社員組合委員長として壇上に上がり、閉山の言葉を述べました。「夜、社宅があった猪野々(朝来市生野町)から太盛山を眺めると、坑道に上がっていく人たちのカンテラ(携帯用ガスランプ)の灯が見えた」と、若い頃の思い出話をしたのを覚えてますよ。

 生野鉱山が閉山した理由は四つあると思います。一つ目は、貿易の自由化で外国から安い鉱石がどんどん入ってきたこと。生野鉱山は地下880メートルまで掘っていたのでコストが高くつき、外国産に太刀打ちできなかった。二つ目は鉱量の枯渇。三つ目は排水によるカドミウムの公害問題。四つ目は、岩盤の圧力で坑道がつぶされる「山はね」です。山はねは生野鉱山独特の現象で、閉山前に相次ぎました。社宅にいても、発破とはかすかに違う「ドーン」という音で分かりましたよ。これが致命的でした。

 僕は73年末まで生野に残って、古い坑道の閉鎖や陥没事故の補償を担当し、12月に明延鉱山(養父市大屋町)に転勤しました。

 今、生野の人口は3500人くらい。鉱山全盛期の昭和30年代は1万2千人いました。協和会館の娯楽、病院、共同浴場、購買会…。みんな幼い頃から、有形無形に鉱山に頼って生きていました。生野は本物の鉱山町でした。それが閉山でみんな散り散りばらばらになり、まちは灯が消えたようになってしまった。寂しかったですよ。

【いとう・しんいちろう】 1929(昭和4)年、朝来市生野町生まれ。47年、三菱鉱業生野鉱業所に入社。57年、採鉱課職長。63年、同課職員。73年の閉山時は社員組合委員長。観光施設「史跡・生野銀山」の立ち上げやガイド養成にも携わった。

但馬の最新
もっと見る

天気(6月20日)

  • 28℃
  • 22℃
  • 10%

  • 28℃
  • 18℃
  • 10%

  • 30℃
  • 21℃
  • 10%

  • 31℃
  • 21℃
  • 10%

お知らせ