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伊藤真一郎さんの父理一郎さんの「坑夫取立免状」=史跡・生野銀山
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伊藤真一郎さんの父理一郎さんの「坑夫取立免状」=史跡・生野銀山

 史跡・生野銀山(兵庫県朝来市生野町小野)の資料館に、僕のおやじ、理一郎の「坑夫取立免状」が展示されています。おやじは1886(明治19)年、岡山県新庄村の生まれ。親が早くに亡くなり、18歳で生野に出てきて坑夫になりました。

 昔の坑夫さんは、親分や兄分の下について3年くらい修業したそうです。一人前になると、坑夫取立免状を授かった。おやじからよく説明を聞かされましたよ。「日本帝国ノ財宝タル金銀銅鉄鉛ヲ採掘シ国家ノ幸福ヲ得ル貴重職ニシテ…」という書き出しで、親分衆、兄分衆、子分衆の名前がずらーっと書いてある。

 免状の最後には「各国諸鉱山同盟諸君御中」とあります。昔の坑夫さんはこれを懐に忍ばせて全国を渡り歩き、よその鉱山で自分を売り込んだんです。そこで飯を食わせてもらい、病気やけがをしても面倒を見てもらった。こういう人を「渡り坑夫」といいました。行き着いた先で生活を保障してもらえる代わりに、妻帯しない独り者が多かったようです。逆に、同じ鉱山にとどまる人は「居着き坑夫」と呼ばれました。

 おやじは免状をもらった後で一度、生野を出て、岡山で4、5年、国鉄のトンネル工事に従事したそうです。当時はまだ手掘りで、掘った穴を火薬で発破するんだね。生野鉱山の手掘り坑夫は重宝がられるわけです。その後、また生野に帰ってきました。

 当時は三菱、三井、日光、古河、同和といろんな鉱山会社があったけど、鉱石を出すのは全部下請けでした。生野にも坑夫さんを抱える組が四つほどあったらしい。おやじはその一つ「辻本組」に入りました。手掘りは相当の腕だったようで、やがて坑夫さんを率いる職頭になった。

 僕が子どもの頃、正月は坑夫さんたちがおやじの所に年賀のあいさつに来ました。おやじは一人一人に、大将から授かった新しい法被とタオル1本をやるわけです。「ありがとうござんす」と皆、礼を言って帰っていった。僕は「坊、坊」とかわいがられました。組は昭和初期に解散したようです。(聞き手・長谷部崇)

【坑夫取立免状】昭和初期まで全国の鉱山には「友子制度」という坑夫の共済組合制度があった。親分・子分の盟約を結び、一定期間の過酷な修業を終えた者には「坑夫取立免状」を交付。全国の鉱山で一宿一飯の恩義にありつけたほか、病気やけがの場合も救済された。

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