但馬

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父・伊藤理一郎さん(後列)と3人の子ども。前列中央が真一郎さん(提供)
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父・伊藤理一郎さん(後列)と3人の子ども。前列中央が真一郎さん(提供)
大正時代に建てられた「力泉寮」=朝来市生野町猪野々(同市提供)
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大正時代に建てられた「力泉寮」=朝来市生野町猪野々(同市提供)

 「坑夫3年、吹き(製錬する人)8年、かかあばかりは50年」-。徳川時代にあったという戯れ歌です。坑夫をやると3年、製錬をする人は8年しか寿命がない、嫁さんばかりが長生きする-。昔の坑夫はそのくらい短命の人が多かった。昔は「よろけ」と呼んだけい肺(じん肺の一種)を患う坑夫も多く、僕が会社に入った頃も、50歳まで生きれば長生きの方でした。

 生野(兵庫県朝来市)には昔、鉱山の公衆浴場が四つほどありました。背中に立派な紋紋(入れ墨)を入れた坑夫さんもいたもんですよ。酒の臭いをぷんぷんさせてね。明日の命も分からんということで、坑夫さんは酒飲みの人が多かったんです。

 そんな坑夫さんの独身寮が生野に二つありました。猪野々の「力泉寮」は平屋で、30代後半から40代の人が多かった。新町の「銀谷寮」は2階建ての大きな建物で、20代や30代前半の若い連中が大勢入っていました。

 僕は子どもの頃、力泉寮の人にかわいがってもらいました。寮には桜の木がたくさん植わっていて、よくサクランボを採りに行った。黙って取ると怒られるから、寮のおっちゃん連中から了解を得るわけです。「取ってもええか」「ああ、分かった。落ちんようにせえよ」と。仲良くなると、寮の酒保(日用品や嗜好品の売店)でお菓子を買ってくれるようになりました。一見おっかないけど、みんな根は優しかった。

 当時、坑夫の定年は55歳でした。おやじが鉱山を定年退職した頃に太平洋戦争が始まりました。

 おやじは無口な人で、余計なことは一切言わなかった。しかられたような記憶はありません。そんなおやじが公衆浴場で「バカな戦争をする」と怒っていたことがあります。「アメリカ軍に勝てると思うとんか」と。まだ「シンガポール陥落」とか言って、国中が「勝った、勝った」と騒いでいた頃です。僕は慌てて「そんなことを言うたらいかん」と止めたんやけど、「ダメだ、この戦争は」と聞かなかった。(聞き手・長谷部崇)

 【生野鉱山の共同浴場】 口猪野々、奥猪野々、扇山(今の新町)、緑ケ丘の4地区に鉱員社宅用の共同浴場があり、地元住民も利用できた。1973年の閉山前後に相次いで閉鎖。最後の「扇山浴場」は住民による浴場組合が跡を継いで運営したが、84年に閉鎖された。

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