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大阪捕虜収容所生野分所の図面
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大阪捕虜収容所生野分所の図面

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2月か3月ごろ、大阪や和歌山に収容されていた英軍、米軍などの捕虜400人以上が、猪野々(兵庫県朝来市生野町)の捕虜収容所に移送されてきました。

 当時、阪神間などの都市部は空襲が激化し、捕虜たちの身に何かあったら困るというので、山間部で鉱山の労働力を必要としていた生野に一時的に捕虜収容所を設けたんです。捕虜たちは採掘の手伝いや運搬などの鉱山労働に駆り出されました。

 当時、旧制中学校の生徒だった私は、収容所から100メートルほどの鉱山社宅に住んでいました。収容所の敷地はかなり広く、周囲に高さ2、3メートルの板塀を張り巡らせていた。われわれ住民の生活とは断絶されていて、中の様子はほとんど分かりませんでしたよ。

 収容所長は確か日本の陸軍大尉で、バイクのサイドカーに乗って出勤するのをよく見かけました。

 捕虜たちは毎朝、白口川に架かる橋の前に2列に整列するんです。日本の軍属が「気をつけ! 駆け足-進め!」と号令をかける。隊列を組んだまま、駆け足で2、3キロ離れた金香瀬(今の生野銀山)まで走らされていました。帰り道は駆け足どころじゃない。並んで帰ってくるけど、首を振り、疲れ切っていました。かわいそうでしたよ。着替えもないから「着たきりすずめ」で、軍服もヨレヨレでした。

 捕虜たちの中でも将校は重労働を免除され、白口(朝来市生野町)の方で山を開墾して畑を作っていました。見張りも軍属が1人くらい。終戦後、僕も畑を見に行ったことがあるけど、ろくに耕していなかった。形だけの労働だったと思います。少佐ぐらいになると口ひげを伸ばしてね、威厳がありましたよ。

 終戦の時、僕は生野中学校(旧制)の3年生でした。8月15日はかんかん照りで、校庭に集まって、ガーガー言うラジオを聞いた。何を言ってるのか分かりませんでしたが、「どうやら日本が戦争に負けたらしい」と。教官が「今の放送はデマだ。天皇陛下がそんなことをおっしゃるわけがない」とうろたえていたのを覚えています。(聞き手・長谷部崇)

【大阪捕虜収容所生野分所】 収容所の図面によると、約9千平方メートルの敷地に大収容所1棟や小収容所6棟、事務所、衛兵所などを備えた。書籍「捕虜収容所補給作戦」によると、英軍・米軍などの440人(うち将校40人)を収容した。収容中の死者はいなかったとされる。

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