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史跡・生野銀山に展示されている伊藤さんの手帳。写真は20代の頃
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史跡・生野銀山に展示されている伊藤さんの手帳。写真は20代の頃

 僕の家族は父親の定年後も三菱の社宅に住ませてもらっていました。住み続けるには、家の誰かが鉱山に籍を置く必要があった。1947(昭和22)年、僕がおやじの跡を継いで鉱山に入りました。18歳の頃でした。

 鉱山の採鉱事務所へ面接に行くと、採鉱課長から「君のお父さんには世話になった。君も鉱山志望したんか」と言われました。「旧制中学を出たなら勉強はしとるな。そろばんはどうや」と。最初は事務で使うつもりだったらしい。課長代理からそろばんを渡され、読み上げ算をやらされました。

 課長代理は「15円なり、36円なり」と早口で言うんです。立ったままだから間違うんですよ。「何や、君はそろばんダメやな。事務向きじゃないな」って。「じゃあ、明日から運転区に行ってもらおうか」と言われ、箱に入ったカンテラ(携帯用ガスランプ)とガスを受け取って帰りました。

 運転区は、坑内の排水ポンプやケージ(エレベーター)を管轄する区です。最初の仕事はポンプマンでした。坑道というのは、まず垂直方向の「竪坑」を掘って、大体50メートルおきに横方向の「横坑」を開くんです。地下水がどんどん出てくるので、メインの坑道にはポンプを据えます。50馬力や100馬力のポンプを3、4台稼働させて、水を地上へ運ぶんです。

 初日はベテランの鉱員さんからポンプの使い方を教えてもらいました。「坑内というのはひどい所だ」と思いましたよ。モヤーッとして空気は悪いし、真っ暗で、世間から隔離された地底でしょう。物音といったらポンプのモーター音と、時々発破の音が「ドーン…」と聞こえるくらいでね。母親が無理して買った闇米で弁当を持たせてくれたけど、最初の頃は「なんで俺はこんな仕事をせないかんのや」と悲しくて食べられなかった。

 仕事が終わって外に出た時の空気のうまいことといったら。何年たっても、坑口を一歩出ると「ありがたい」と思ったもんですよ。冬なんか、知らぬ間に外が真っ白になってる。雪が降った後の空気というのは、ひんやりして余計においしかった。腹いっぱいに吸いこんだもんですよ。(聞き手・長谷部崇)

【近代の生野鉱山】大正期に銀の産出量が減少し、銅、鉛、亜鉛などの産出が中心となった。生野の鉱床は、金香瀬と太盛の鉱脈群に大別され、生産区域は金香瀬の1~3区と太盛の「太盛区」、準生産部門として鉱石を搬送する「送鉱区」や「運転区」があった。

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