但馬

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1棟の長屋に複数の世帯が暮らした「口猪野々社宅」(昭和中期、朝来市提供)
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1棟の長屋に複数の世帯が暮らした「口猪野々社宅」(昭和中期、朝来市提供)

 1963(昭和38)年、職員任用試験に合格しました。

 「職員」は基本的に学卒の本社採用。鉱業所ごとに採用する「鉱員」から職員に昇格できるのはほんの一握りで、両者の間には、あらゆる面で待遇差がありました。

 まずは住居。鉱員の社宅は3、4戸がずらーっと並ぶ棟割り長屋です。職長になると、2戸1棟の「職長長屋」に移ります。職員社宅は風呂付きの一戸建てです。俳優の志村喬さんが生まれた「甲社宅」も職員社宅ですね。僕は職員になってから「寺の上社宅」(山社宅)に住みました。部屋は四つほどありましたね。

 演劇や歌謡ショーが上演された娯楽施設「協和会館」でも、職員の席は2階の正面席と決まっていました。その区画は職員と家族しか入れず、竹を横に通して囲っていた。鉱員の席は2階の脇や1階席です。鉱員の子どもが職員の指定席に座っていたら、守衛につまみ出されていました。

 給料も職員は月給、鉱員は日給みたいなもので、給料日も別。職員は「社員組合」、鉱員は「労働組合」と組合も分かれていました。労働組合は「昔軍隊、今総評(日本労働組合総評議会)」と言われた総評に加盟していて、力を持っていました。何かというと、ストライキで会社を脅してね。僕も労働組合の執行役員をしていた頃は、職員と鉱員の身分差別撤廃運動というのをやりましたね。

 鉱員さんは種種雑多で、全国から集まっていた。多かったのが四国4県。それから岡山、鳥取。鉱員同士で県人会をつくって、年に何度か集まって一杯飲むんです。僕ら職員も呼ばれて行くわけですが、普段僕らから叱られているから、酔って鬱憤を晴らすわけ。めちゃくちゃ言うもんだから早々に退散したもんですよ(笑い)。

 だから、生野鉱業所の所長(昔は鉱山長)というのは本当に雲の上の人でした。コンクリートの塀で囲まれた立派な社宅に住んで、お手伝いさんも3人ほどいた。われわれは所長宅にお邪魔することなんかまずないけども、正月だけは無礼講で、年始のあいさつに行って、お酒を呼ばれたもんです。(聞き手・長谷部崇)

【鉱山社宅】「朝来市の近代化遺産調査報告書」によると、生野では明治から昭和にかけて職員社宅156棟、鉱員社宅287棟が建設された。半数以上は戦後の開発だった。所長(鉱山長)が住んだ「甲社宅1号」は床面積が約260平方メートル、15部屋もあった。

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