但馬

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太平洋戦争で兄2人を失い、「戦争だけはしてはいけない」と話す浅田のぶ子さん=朝来市
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太平洋戦争で兄2人を失い、「戦争だけはしてはいけない」と話す浅田のぶ子さん=朝来市
長男頼男さん(中央右)を送り出す家族=1942年(浅田のぶ子さん提供)
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長男頼男さん(中央右)を送り出す家族=1942年(浅田のぶ子さん提供)
家族に見守られて出征する次男貞夫さん(左から5人目)=1944年(浅田のぶ子さん提供)
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家族に見守られて出征する次男貞夫さん(左から5人目)=1944年(浅田のぶ子さん提供)

 「兄たちは国の犠牲になり、青春もない短い生涯を送った。戦争だけはしてはいけない」-。兵庫県朝来市の浅田のぶ子さん(89)は太平洋戦争で兄2人を失った。もう1人の兄は旧ソ連のシベリアに抑留された。終戦75年を迎える今年、戦争で引き裂かれた家族の悔しさを胸に、記憶を書き残し始めた。(竜門和諒)

 浅田さんは同市で、8人きょうだいの次女として生まれた。長男中島頼男さんと次男貞夫さん、三男講之助さんの3人が陸軍兵士として召集された。

 頼男さんは1942年8月、鳥取県の部隊に入隊。中国出征前に帰郷した際、「自転車に乗れるようなった」と甘えたのが最後で、パプアニューギニアのニューブリテン島で戦死した。23歳だった。

 貞夫さんは鉄道車掌として神戸車掌区で勤務。44年、姫路の部隊に入り、満州やフィリピンなどの戦地を転々とした。「帰ったら助役の試験を受けたい」と語っていたが、「召されゆく庭は何処(こ)か知らねども 我(わ)が身すでに靖国(やすくに)の花」。届いた手紙はこの辞世の句で始まっていた。「戦場に立って、覚悟を決めたのだと思います」と浅田さん。

 「父母より先立つことを許して下され」「自分の貯金も弟妹の教育費に充てて」「信(のぶ)子は良き日本女性として」-。家族への思いがあふれていた。

 45年7月、フィリピンのバタン島で偵察に出掛け、2週間戻らなかったことで戦死とみなされた。「あと少し早く終戦していれば。悔しくて悔しくて」。出征前に残した髪と爪で葬儀を行った。22歳だった。

 同年2月、講之助さんは満州へたち、終戦後はシベリアに2年間抑留された。舞鶴港から復員した際は、「痩せて人相が変わって、最初は家族ですら分からなかった」という。約10年前に亡くなったが、「赤痢にかかりながら、病院で仲間の死体を片付ける作業をさせられた」と抑留生活の一部を話したことがあった。戦後はフィリピンに遺骨収集に出掛けるなど、生涯戦争と向き合った。

 浅田さんは結婚し、子ども3人、孫6人、ひ孫3人に恵まれた。家族には戦争の体験を進んで話さなかったが、講之助さんから戦時中の家族写真や手紙などを受け取り、「何かを託されたような気がした。きょうだいで一人残った私が将来に伝えないと」と思いが変化した。

 「両親もきょうだいも私も、みんな戦争の犠牲者だったんです」。兄のことを思うと涙がこぼれるが、記憶の継承を願い、少しずつ筆を進めている。

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