モンゴルとつないだ縁(下)但東に帰郷、現地との懸け橋

2021/02/16 05:30

モンゴルの民族衣装を着る(左から)水谷東洋さん、さくらちゃん、ジャルガルサイハン・ラマーさん=日本・モンゴル民族博物館

 兵庫県豊岡市職員の水谷東洋さん(39)=同市但東町=は中学時代、友好使節団としてモンゴルに渡航し、地元に開館した「日本・モンゴル民族博物館」(同市但東町中山)に通った経験から、モンゴル研究の道へと進んだ。5年前、モンゴル人の妻ジャルガルサイハン・ラマーさん(29)とともに帰郷。但東町とモンゴルとの縁を今につないでいる。(石川 翠)


 水谷さんは現在、農林水産課で農業を担当している。2016年に東京から移住。翌年には結婚し、長女さくらちゃん(3)が生まれた。
 同博物館のスタッフを務めるラマーさんは「モンゴルの高原で絶滅危惧種に指定されているリス科の動物タルバガ(モンゴルマーモット)の保護につながる研究をしたい」と話す。自然保護と経済活動をうまく組み合わせた豊岡市の「コウノトリ育むお米」の取り組みが参考になるという。
 ラマーさんによると、モンゴルでは今でも遊牧民は身近な存在。ラマーさんの親戚も半数ほどが遊牧生活を続け、ラマーさんも子どもの頃は夏休みに祖父母のゲルで生活したという。
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 但東町がモンゴル熱に沸いていた1994年。但馬全域で開催された「但馬・理想の都の祭典」に合わせ、同町に約40人のモンゴル人がやって来た。その中の1人の女性、サンギツェベグ・アディアさん(53)は水谷さんの家にホームステイした。中学1年だった水谷さんは、遊び場だった裏山の滝や田んぼを案内。食卓を囲み、モンゴルの生活を聞いた。
 一行が帰国した後も、水谷さんは作家椎名誠さんのモンゴル紀行「草の海」を読み、但東町の山あいの集落とは異なる広大な草原での家畜との暮らしに想像を膨らませた。
 95年、モンゴルへの友好使節団に最年少メンバーとして参加した。ゲルでの生活も体験。地平線のかなたに夕日が沈む光景は目に焼き付いた。
 96年11月に開館した同博物館に暇さえあれば通い、所蔵品を寄贈した副館長の金津匡伸氏(2009年死去)から多くの話を聞いた。
 出石高校で自由研究のテーマに選んだのは、太平洋戦争中に同町から満州(中国東北部)に渡った「高橋村満州開拓団」だった。満州は内モンゴル自治区の一部で、モンゴル人もいたことを知った。「但東町はすでにモンゴルと出合っていた」-。
 関心は次第にモンゴルの自然から人へと移った。和光大(東京)から東京外国語大大学院に進学し、モンゴルの近現代史を本格的に研究。社会主義体制を経て変化してしまった遊牧民の文化を見つめ直すため、毎年現地を訪れては高齢者への聞き取り調査などを行った。
 飛行機は北京までで、そこから列車を乗り継いで現地へ向かった。ほとんど初対面の人の家に3カ月ほど居候させてもらうこともあった。「広大な土地に家が点在していることもあり、当たり前のように他人を受け入れてくれる。たくさんの親切がありがたかった」と振り返る。
 2012年、モンゴル国立大から留学で東京に来ていたラマーさんと出会った。偶然にもラマーさんはアディアさんと同じバヤンホンゴル県の出身だったことから、2人でアディアさんを探し当て、20年ぶりの再会も果たした。
 16年、水谷さんは市職員に採用され、東京からUターン。ラマーさんはモンゴルの日本企業に就職していたが、2人で但東に移住し、同博物館のスタッフとして働くことになった。
 20年12月からは2人で、モンゴル語や文化を体験し表現する場「豊岡モンゴルカフェ」を豊岡市内で始めた(現在は新型コロナウイルス感染拡大のため中断)。「将来は参加者とモンゴルへ学習ツアーをすることが目標」と水谷さん。縁がつながっていくことを夢見ている。

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