希少「生野紅茶」 ルーツは秀吉も飲んだ生野銀山茶
2021/06/29 05:30
「コアニエ・ティー」の名前で販売される生野紅茶=朝来市生野町新町
兵庫県朝来市生野町に、年間約50キロしか栽培されない希少な地紅茶「生野紅茶」がある。銀色の袋に赤いシールが貼られたパッケージには「コアニエ・ティー」の文字。明治初期に、生野鉱山の近代化、生産力向上に尽くしたフランス人ジャンフランソワ・コワニェにちなんで名付けられたという。紅茶好きの西洋人たちが持ち込んだのか。ならば最盛期の土煙る生野の鉱山町には、優雅な午後のひとときが流れていたのだろうか。ロマンに心を躍らせながら、産地を訪ねた。(竜門和諒)
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6月上旬、同市生野町竹原野の山裾には、エンジン音が響いていた。見ると、住民ら約10人でつくる「生野紅茶の会」会長の白瀧英雄さん(77)が、茶刈り機をたくみに操作している。現在、ほぼ1人で町内3カ所の茶畑を管理し、毎年この時期になると一番茶を摘み取るのだという。
収穫した茶葉は、12年前に廃校になった奥銀谷小へ。敷地内のプール更衣棟が改装され、加工所になっていた。茶葉が発酵する際のツンとした独特のにおいが屋外にまで漂う。中に入ると茶葉を発酵、乾燥させる機械がずらり。2日で加工し、2~3カ月寝かせて販売する。白瀧さんは「甘みがあって、飲みやすい紅茶です」と紹介した。
◇ ◇
生野紅茶の誕生は、コワニェの影響…ではなく、生野銀山閉山から28年が経過した2001年。れっきとした平成生まれだ。
ルーツは、古くから多くの家庭で栽培され、“生野銀山茶”として親しまれていた日本茶。その歴史は織豊時代にまでさかのぼることができる。地元の郷土史料には、羽柴秀吉が生野で茶を飲んだという記述がある。
江戸時代前期の1683年に記録された徴税のための台帳「銀山廻り茶改め帳」には、各家庭の茶の木1本ずつを調べた記録が残されている。「茶役銀」と呼ばれる税を徴収するための調査で、遅くともこの時期には栽培が一般化していたことが読み取れる。
なぜ生野では茶の栽培が盛んだったのか。旧生野町文化財委員会がまとめた冊子「一里塚」は、気候風土に合ったことに加えて、「葉が厚く煙害などに強いお茶ぐらいしか栽培できなかった」という可能性にも触れている。生野銀山の操業による環境への影響を踏まえたものとみられる。
1954(昭和29)年には旧生野町が日本茶の加工場を開設。一里塚によると、当時、加工場が受け付けた茶の量は約10トンで、その頃に植えられた木が80年ごろの栽培のピークを支えたという。その後は高齢化などで栽培量が減少。摘まずに放置される畑も増え、2009年には加工場も閉鎖された。
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あちこちに残り、活用されていない茶畑-。これに目を付けたのが、特産品の開発を目指していた生野町観光協会(現朝来市観光協会)だった。
お茶には緑茶、ウーロン茶、紅茶などさまざまあるが、元は同じ茶葉。収穫後、発酵が進まない段階で加工したものが緑茶、完全に発酵させると紅茶となり、発酵をある程度進めた段階で止めたものが、ウーロン茶となる。
同協会は01年夏、一番茶を収穫した後の二番茶を利用し、鳥取県の生産組合に依頼して紅茶20キロを試作。明治期にお雇い外国人を受け入れ、早くから西洋文化に触れてきた土地柄を象徴し、「コアニエ・ティー」と名付けて販売した。
当初は毎年鳥取で加工していたが、12年に白瀧さんが自費で加工用の機材を購入。紅茶加工の経験がなかったため、静岡県での研修会に参加し、ノウハウを身に付けた。
生野で取れる希少な紅茶として、奥銀谷地域自治協議会事務局(同市生野町新町)やJR生野駅にある市観光情報センターなどで販売している。価格は50グラム650円。生野まちづくり工房「井筒屋」(同市生野町口銀谷)には、茶葉を混ぜ込んだオリジナルの「生野紅茶クッキー」も並ぶ。
ただ、誕生から20年。生野紅茶の生産は、会員の高齢化に加え、収穫、販売量が少なく収益も限られるため、新たな担い手探しが喫緊の課題だという。白瀧さんは「なんとか元気なうちに後継者を探し、次の世代に引き継いでいきたい」と頭をひねっている。