丹波

  • 印刷
今も残る、篠山歩兵連隊の門柱と記念碑=丹波篠山市郡家
拡大
今も残る、篠山歩兵連隊の門柱と記念碑=丹波篠山市郡家
篠山歩兵連隊があった場所には篠山産業高校の校舎や農場、篠山署などが広がる=丹波篠山市郡家
拡大
篠山歩兵連隊があった場所には篠山産業高校の校舎や農場、篠山署などが広がる=丹波篠山市郡家

 北にそびえる盃山(さかずきやま)を背景に、篠山産業高校や篠山署、鋳物工場などが並ぶ兵庫県丹波篠山市の郡家地区。今、高校生や市民が行き交うその場所に、かつて「丹波の鬼」と呼ばれた日本陸軍歩兵連隊の駐屯地があった。

 兵営跡は約35ヘクタールにわたる。校舎や工場がある場所には連隊本部や兵舎が建てられ、高校の農場や総合スポーツセンター周辺は兵士が訓練する練兵場だった。

 終戦の年まで、約10万人の若者がここで訓練を受けた。戦地に赴き、帰らぬ人も多かった。兵士は多紀、氷上、有馬、川辺各郡のほか、神戸、阪神、大阪の都市部などから集められ、丹波地域からも多く若者がこの営門をくぐった。

 1939(昭和14)年、24歳で補充兵として招集された故・戸倉勇さん=丹波市氷上町新郷=もその一人だった。

 「果(はた)して此(こ)の新郷を二度と見る事が出来るだろうか?(中略)好むと好まざるにかヽわらず之(これ)は日本男子と生れた者の宿命である。と同時に悲願でもあった。(中略)なぜなら少年時代から軍国日本の昔の教育勅語を其(そ)のままに一生の指針としてたたき込まれてきた農村青年である」

 終戦から30年ほど後に戸倉さんがつづった回想録には、入隊した日のことがそう書き記されていた。

 兵営の正門があった「ハローワーク篠山」前には現在、れんが積みの門柱3基だけが残り、その向こうには三つの碑が立つ。

 「歩兵第70連隊」

 「歩兵第168連隊」

 「第31航空通信連隊」

 篠山歩兵第70連隊は日露戦争後の1907(明治40)年に大阪で発足し、翌年に当時の篠山町へ移る。70連隊が日中戦争に向けて37(昭和12)年に満州へ派兵された後も、この兵営からは第170連隊、第216連隊などが目まぐるしく編成された。

 戸倉さんは篠山練兵場で4カ月間訓練し、満州、仏領インドシナ(現ベトナムなど)の作戦に参加した後、第170連隊としてニューギニアで戦い、生還した。戸倉さんの次男・茂さん(70)は、生前の父が時折語った連隊の思い出を覚えている。「盃山の駆け足登山とか、青野ケ原(小野、加西市)から篠山まで走って行軍したとかね」

 「丹波の鬼」と呼ばれるゆえんとなった厳しい訓練を語る口調には、誇りややりがいが感じられたそうだ。だが戦場の記憶になると表情は変わった。仏領インドシナで、上官が捕虜の首をはねるよう命令することがあったという。

 「国の考えがどうであれ、戦場にあるのは人と人との殺し合いだけやと。誰かに覚えておってほしい気持ちやったんでしょうか」

 戸倉さんが家で戦争について雄弁に語ることは少なかった。だが、毎晩寝る前、広告の裏に手記を書き連ね、それは73歳で亡くなるまで続いた。

    □    □

 篠山歩兵連隊跡で今も形を残すのは、いくつかの門柱と2棟のれんが倉庫、射撃場の監的濠(かんてきごう)などわずかだ。戦後75年となった今、連隊の様子を語れる人も少ない。だが町のあちらこちらに、そして体験者の語りを聞いた人の中に、戦争の記憶は残っている。連隊にまつわる有形無形の戦跡をたどった。(金 慶順)

丹波の最新
もっと見る

天気(10月1日)

  • 27℃
  • ---℃
  • 10%

  • 25℃
  • ---℃
  • 20%

  • 28℃
  • ---℃
  • 0%

  • 28℃
  • ---℃
  • 10%

お知らせ