丹波

  • 印刷
篠山歩兵連隊が使用していたとされるれんが倉庫。「三井ミーハナイト・メタル篠山工場」の敷地内に2棟が残る=丹波篠山市郡家
拡大
篠山歩兵連隊が使用していたとされるれんが倉庫。「三井ミーハナイト・メタル篠山工場」の敷地内に2棟が残る=丹波篠山市郡家
昭和10年ごろの篠山歩兵連隊の兵営を描いたとみられる見取り図(三井ミーハナイト・メタル提供)
拡大
昭和10年ごろの篠山歩兵連隊の兵営を描いたとみられる見取り図(三井ミーハナイト・メタル提供)
篠山歩兵連隊で使われていたとされるれんが倉庫の内部。現在は資材置き場として使われている=丹波篠山市郡家、三井ミーハナイト・メタル篠山工場
拡大
篠山歩兵連隊で使われていたとされるれんが倉庫の内部。現在は資材置き場として使われている=丹波篠山市郡家、三井ミーハナイト・メタル篠山工場

 「連隊本部」に「火薬庫」、「武道場」。「第一第二中隊」などと書かれた6棟の兵舎。道を挟んで南側には「練兵場」-。

 昭和10年ごろの篠山歩兵第70連隊の兵営を描いたとみられる見取り図だ。いつ誰が描いたのかは不明だが、かつての兵営の一部で操業する銑鉄鋳物製造業「三井ミーハナイト・メタル篠山工場」(兵庫県丹波篠山市郡家)に所蔵されている。

 1939(昭和14)年に補充兵として招集された故戸倉勇さん=同県丹波市=は、終戦の30年ほど後につづった回想録でこう記している。

 「八月十四日午前十時頃篠山歩兵第七十聯隊(れんたい)の門をくぐった。初年兵の私に其(そ)の時の招集が如何(いか)なる規模であったかわ知る由もないがあの広い当時の営庭が一杯になる程な人員であった」

 その広い兵営があった場所には戦後、篠山農学校(現篠山産業高校)や県立兵庫農科大学などが置かれ、周辺は軍都から学都へと姿を変えた。後に、県立農科大は国に移管されて神戸大学農学部の母体となり、篠山を去る。そして、その跡地には1970(昭和45)年、「篠山鋳鉄」(現三井ミーハナイト・メタル)の工場が入った。

 農科大時代は、連隊の建物をそのまま学生たちが使うこともあった。だが、現在も同社工場の敷地内で連隊当時から残るとされる建物は、2棟のれんが倉庫だけだ。赤いれんがに縦長の窓。外壁には緑色のツタが生い茂る。

 1棟は屋根をふき替えて、資材置き場として使われている。もう1棟は瓦ぶきのままで昔の姿を残すが、老朽化のため立ち入れない。一般公開はしておらず、同社は「老朽化が進めば将来的には取り壊すかもしれない」とする。

 全国の歩兵連隊跡の中には、文化財や資料館として保存されている場所もある。だが篠山歩兵連隊跡の倉庫や「ハローワーク篠山」前に残る門柱は、歴史を示す貴重な遺産ではあるものの、公的な文化財に指定されてはいない。公式の記録も少なく、語り部の記憶に頼る部分が大きい。

 だからといって、忘れ去られているわけでもない。門柱の奥に立つ「歩兵第70連隊」など3つの碑を、今も一人で手入れし続けている人がいる。同市の大路靖さん(83)だ。

 最初は岡野地区の老人会の活動だった。メンバーの高齢化を受け、ここ10年ほどは、大路さんが一人で彼岸や盆の前などに年3回、掃除、草刈りをしている。「今でも遺族の方がたまにお参りしている。草がボーボーに生えてたら仏さんが浮かばれんやろ」

 「第168連隊」の石碑の下には、隊員の遺書や遺品が納められている。変色していく紙を見つめ、「自分ができる限りは手入れを続けたい」と、大路さんはつぶやいた。(金 慶順、綱嶋葉名)

    □    □

 篠山歩兵連隊跡で今も形を残すのは、いくつかの門柱と2棟のれんが倉庫、射撃場の監的濠(かんてきごう)などわずかだ。戦後75年となった今、連隊の様子を語れる人も少ない。だが町のあちらこちらに、そして体験者の語りを聞いた人の中に、戦争の記憶は残っている。連隊にまつわる有形無形の戦跡をたどった。

丹波の最新
もっと見る

天気(10月1日)

  • 27℃
  • ---℃
  • 10%

  • 25℃
  • ---℃
  • 20%

  • 28℃
  • ---℃
  • 0%

  • 28℃
  • ---℃
  • 10%

お知らせ