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日置春弘さんが書いた遺書や、遺品として残した髪と爪が入った袋=丹波篠山市畑宮
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日置春弘さんが書いた遺書や、遺品として残した髪と爪が入った袋=丹波篠山市畑宮
学生時代の日置さんの写真と、戦時中に暗記した「軍人勅語勅諭集」=丹波篠山市畑宮
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学生時代の日置さんの写真と、戦時中に暗記した「軍人勅語勅諭集」=丹波篠山市畑宮

■佐々婆神社宮司 兵庫県丹波篠山市の日置春弘さん(92)

 「遺書」と墨で書かれた茶封筒。「爪」と「髪」もある。丹波篠山市畑宮の佐々婆神社で宮司を務める日置春弘さん(92)が、数え年で19歳の時に書き残したものだ。「赤紙(召集令状)が来て戦地に行ったら、死ぬのが当たり前やった。19歳なんて、まだ子どもやのにな」。そうつぶやき、封筒をじっと見つめた。(綱嶋葉名)

 日置さんは、5人きょうだいの4番目。長男である兄は早くに病気で亡くなり、男は1人となったため、跡取りとして育てられた。

 旧制鳳鳴中学校(現篠山鳳鳴高校)3年の頃、大阪機工(現OKK)猪名川製造所(伊丹市)での勤労奉仕を命じられた。伊丹市緑が丘にあった寮で寝泊まりし、朝は同郷の仲間たちと軍歌などを歌いながら工場に向かった。工場では、飛行機の部品を作るために旋盤を回していたが、厳しい指導者の怒声がいつも響いていたという。

 中学卒業後、日置さんは国学院大学(東京)に進学。しかし、大学でも満足に勉強はできなかった。授業が終わると町田市で勤労奉仕の毎日を送った。

 食べ物も無かった。日置さんや同級生は栄養失調になり、腐った豆などを食べてしのいだ。ある時、同郷の友人が帰省し、日置さんの両親は「息子に食べさせたい」とかき集めた米をその友人に託した。しかし、飢えに耐えかねた友人は米を食べてしまう。「本当に殺生なことばかりだった」(日置さん)。

 このころ、戦争はいっそう激化。東京では昼夜を問わずに敵機が飛び回り、機銃掃射の弾が降り注いだ。渋谷区に今もある兵庫県出身者が暮らす学生寮「尚志館」で生活していた日置さんは、夜に空襲警報が鳴るたびに、勉強道具や衣類を詰めたリュックサックを抱えて近くの防空壕(ごう)に飛び込んだ。

 空襲で3日3晩、街が燃えた時は「生きた心地がしなかった」と遠くを見つめる。川に行くと焼け焦げた遺体が並び、川面にも浮いていた。「相手(米国)は大きな象みたいなもの。日本は犬や。勝てっこないんや」。

 1945年、ついに徴兵検査の招集がかかった。栄養が足りず、やせ細った体だったが「甲種合格」。赤紙をじっと待ちながら、「(赤紙が)来たらしょうがない、天皇のために死んでいく」と諦め、両親に宛てた遺書をしたためた。遺品代わりに爪と髪も切り、封筒に入れた。

 「思えば私は親不孝者でした。今まで十九年間の長い年月何一つとして喜んで頂くこととて無く、いろいろと心配ばかりかけて誠に申し訳ありません。このたび私も軍人となり、御天子様のために御奉公致すこととなりました。男と生まれてきた以上、滅死奉公の誠をもって思う存分自分の実力を発揮して御奉公する覚悟でございます。これすなわち忠となり孝となるのです。今に立派な軍人となって必ず父母様をお喜ばし致します。私は一人の男で家の後継ですが、お父様よろしくお願い致します。家に残られる御父母様、私のことは何も心配せず十分体に気をつけてお暮らし下さいませ」

 その後、日置さんは間一髪で出征を免れ、そのまま終戦を迎えた。大学卒業後は地元の中学校などで教壇に立ち、現在は佐々婆神社などの宮司を務める。

 「ほんと、ばかな戦争やった。当時は出征して戦地で死ぬことが名誉。今では考えられへん、ただの犬死にやのに」。そう振り返る日置さんの脳裏には、戦死していった同級生らの姿が今でも浮かぶ。

 鳳鳴中学校に通っていた頃、担任の教諭に「予科練に行け」と言われた。「男(兄弟)は1人だから」と拒否すると、「国賊や」とののしられたという。「兄弟がおる人たちはみんな志願して予科練に行って、死んでしまった」。その悔しさは、今も忘れられない。「戦争だけはするもんじゃない」。目に涙をにじませながらつぶやいた。

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