東播

  • 印刷
キャンバスに向かい、丁寧に線を引く=加古川市内
拡大
キャンバスに向かい、丁寧に線を引く=加古川市内

 兵庫県加古川市内の高齢者住宅の一室。入居20年になる出原あゆみさん(82)=仮名=が、絵の具が染みついたイーゼルにキャンバスを立てかけ、右手の鉛筆を滑らせる。薄い線でスケッチしたのは濃いピンク色のベゴニア。脳梗塞の後遺症で右腕に力が入りづらい。60代から打ち込んだ油絵は難しくなったが水彩画ならできる。完成させ、展示会に出品した。

 「油絵は色を重ねるから途中でいくらでも修正がきく。思いのまま描けた。水彩画は最初に構図をきちっと決めないといけない。難しさはあるけど、できれば深い喜びがあるんです」

 神戸市内で小学校の教員をしていた。58歳で退職し、離婚がもとで体調を崩して入院した。退院後、自宅からスケッチブックを抱えて毎日1時間ほど歩き、建設中の明石海峡大橋を色鉛筆で描いたのが絵との出合いだった。

 加古川に移り住んでからは高齢者大学に入り、サークルで油絵を始めた。岡山県の備中国分寺、長野県の上高地などキャンバスを抱えて旅行に出掛けた。胸がすくような山並みや草原の風景を好み、70歳を前に古希記念の個展も開いた。

 「絵画サークルに入ったころに(東播地域のケーブルテレビ局)BAN-BANテレビの取材を受けたんです。自分の絵の前に立って『死ぬときは筆をポトンと落として死にたい』って答えたこともありました」

 「生まれつき絵が好きだったのをそれまで気がつかなかったんじゃないかしら。キャンバスも30号、100号とだんだん大きくなって楽しくて楽しくて仕方ない。もう夢中でした」

 充実した姿を喜んでくれたのは4歳年下の弟だったが、脳梗塞になり8年前に亡くなった。高齢者住宅の保証人を引き受けてくれ、頼りにしていた。ショックは重なる。出原さんも直後に74歳で同じ病気を発症した。軽症だったため手術せずに済んだが、重たい画材を運ぶことができず、薬品と湯につけて筆を洗うのもおっくう。時間を忘れて没頭した油絵が遠のいた。

 「筆を洗うのは10分ほど。だけど何回もこすらないといけない。準備と片付けが大変。体が言うことをきかないのが歯がゆい。それでも絵との縁は切りたくないと思って絵はがきや小さいスケッチブックに水彩画を続けました」

 高齢者住宅の共用通路にはこれまで描きためた油絵2、3点ずつを順に飾るようになった。「あなたの絵を見ると落ち着くわ」。見てくれた人の感想がうれしかった。80歳を超えて残りの人生を考えようと高齢者大学の大学院に進んだ。絵を始めてからの20年近くを振り返り、気持ちを切り替えた。「描きたい思いを大切にしよう」

 5月に描いたベゴニアの絵はもう1枚ある。数年ぶりに油絵に挑戦した。重なる花びらの陰影を表現できず、背景を足しても満足できる仕上がりにはならなかったが、意欲は衰えない。

 「今までも完成しないままの絵はたくさんありました。いつか納得のいく油絵が描きたい。その気持ちは変わりません」(若林幹夫)

東播の最新