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江戸期の高砂染の絹着物について説明する尾崎高弘さん=高砂市高砂町鍛冶屋町、高砂や
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江戸期の高砂染の絹着物について説明する尾崎高弘さん=高砂市高砂町鍛冶屋町、高砂や
各地で見つかった高砂染の端切れ。尉と姥の図柄もある
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各地で見つかった高砂染の端切れ。尉と姥の図柄もある
高砂染の記載がある「瀧山日記」。慶応4年に女中に1反を贈ったと書かれている(郷土史家畦上百合子さん提供)
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高砂染の記載がある「瀧山日記」。慶応4年に女中に1反を贈ったと書かれている(郷土史家畦上百合子さん提供)
■高砂染の作業工程■ 鶴と松葉をくりぬいた一つ目の型紙【1】を布地に置いてのりを塗る。その後、型紙を外してはけで地色を染める。続いて松枝柄の型紙【2】を置いて再びのりを塗り、今度は黒色で染める。最後にのりを洗い落とすと3色の高砂染【3】が完成する
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■高砂染の作業工程■ 鶴と松葉をくりぬいた一つ目の型紙【1】を布地に置いてのりを塗る。その後、型紙を外してはけで地色を染める。続いて松枝柄の型紙【2】を置いて再びのりを塗り、今度は黒色で染める。最後にのりを洗い落とすと3色の高砂染【3】が完成する
神戸新聞NEXT
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神戸新聞NEXT

 昭和初期に途絶えた「高砂染」に光が当たり、再評価されている。昨年、江戸城大奥の実力者が残した贈答記録にしばしば登場し、高価な献上品だったことが判明。「江戸期のブランド品」だったようだ。長寿と夫婦円満が込められた縁起物は国内にとどまらず、海外でも紹介されている。(若林幹夫)

 高砂染のモチーフは夫婦和合の象徴として知られる高砂神社(兵庫県高砂市)の「相生の松」。一面に広がる松枝模様に白抜きで縁起物の図柄が重ねられている。図柄の代表例は、相生の松の精、老夫婦の「尉と姥」が手にする竹箒と熊手。結婚式で謡われてきた謡曲「高砂」とルーツは同じだ。

 江戸時代、高砂で染物屋を営んでいた尾崎家の17代目にあたる尾崎高弘さん(53)=同県加古川市=が、近年復刻に取り組む。会社を設立し、復刻版の着物制作や扇子の商品化を進める。

 そんな中、注目の新事実が分かった。江戸幕府13、14代将軍の時代、大奥の最高権力者「御年寄」を務めた瀧山が残した「瀧山日記」に、高砂染が記載。尾崎さんはこの「瀧山日記」を発見した埼玉県の川口市郷土史会に問い合わせた。

 日記には姫路藩から「万延元年五月十五日」に「高砂染一反・姫路皮二枚」を受け取ったなどとあり、高砂染は計13回も登場。江戸開城で城を去る女中に瀧山が1反を与えた記録もあった。尾崎さんは「献上品として受け取った幕府側の記録は貴重。当時の政権中枢でも高級品として位置づけられていた」と説明する。

 近年、国内外での展示も増えてきた。この三が日は高砂神社で展示され、7日から姫路市書写の里・美術工芸館で、瀧山日記の写しも並ぶ「高砂染展」(同工芸館、神戸新聞社主催)が始まる。また、2018年にアラブ首長国連邦で展示され、今年は2月28日にシンガポールである天皇誕生日祝賀レセプションで披露される。

 高砂染は明治以降、庶民向けの木綿製が主流となり、次第に衰退。現存品は少ない。尾崎さんは「高砂染に込められた祝いの精神性が注目され、高級品だったという認識が広がってほしい。各地で眠っている高砂染の発見につながることも期待している」と話している。

   ◇   ◇

 松枝柄に竹箒や熊手、鶴など白抜きの図柄が重なる高砂染は、2枚の異なる型紙を使って染め上げる。手間をかけ、この緻密な模様が生み出される。

 起源は江戸時代後期。傾きかけていた姫路藩の財政を建て直すため、家老の河合寸翁が藩内に特産品作りを命じた。その一つが高砂染。幕府の便宜を期待する際に献上したほか、有力者との関係を築く贈答品として使われたようだ。

 型紙は白抜きになる図柄と松枝の柄をくりぬいた2種類。布地に1種類の型を置いてのりを塗り、外してからはけで染料をのせる作業を繰り返す。のりが塗られた部分には色が付かないため、最後に洗い落とすと模様が浮かび上がる。2種類の染め色と布地の白色の計3色で表現される。

 細やかな柄の型紙は、三木市内の職人に発注されたという。姫路市書写の里・美術工芸館の学芸員岡崎美穂さん(41)は「高砂染は型紙を含めて播磨の技術で作られた。まさに播磨ブランド」と話す。7日から始まる「高砂染展」では、高砂染の布と原本となった型紙の組み合わせも展示される。

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