東播

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久保孝雄さん
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久保孝雄さん
少年飛行兵だった16歳の頃の久保孝雄さん=1943(昭和18)年春
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少年飛行兵だった16歳の頃の久保孝雄さん=1943(昭和18)年春

■兵庫県加古川市・久保孝雄さん(93)

 上空高度2千メートル。米軍機に狙われ、乗っていた戦闘機の計器板の下から火の手が上がりました。火は瞬く間に大きくなっていきますが、天蓋(てんがい)を開けて脱出しようにも風圧で押し戻されてしまう。死んでたまるかと、必死にもがきました。

 1945(昭和20)年8月13日、福岡県の芦屋飛行場を拠点とする飛行第59戦隊に所属していた時のことです。私は志願して16歳で少年飛行兵となり、その時は19歳でした。

 米軍機が接近したとの一報で戦闘機に乗り込みましたが、私だけ離陸が遅れ、危険な単独飛行になっていました。雲の切れ間から眼下に米軍機が見え、射撃ボタンを押し続けました。しかし気が付くと、米軍機の編隊に背後を取られていたんです。

 機銃掃射が命中し、炎は顔の近くまで迫ってくるのに、外に出られない。死の恐怖を感じながら、計器板を思い切り蹴ると、体が機体から離れました。そこから意識が途切れました。

 陸軍は1940(昭和15)年、若い航空兵を養成するため、「少年飛行兵」を制度化。全国の錬成学校に15歳前後の少年が志願して入学し、操縦や整備などを学んだ。その数は終戦までに4万4千人以上。うち特攻隊員などとして約4500人が戦死したとされる。

 撃墜された機体から脱出し、パラシュートが開いた衝撃で気が付きました。両腕が尋常でなく痛み始め、ふと目をやると、ひどく焼けただれていました。

 そのまま山中に落下。近くの村人は米兵だと勘違いしたらしく、竹やりを持って近づいてきましたが、日本兵だと分かると手当てしてくれ、戸板に乗せて病院まで運んでくれました。

 その2日後の8月15日。天皇陛下が重大な放送をされるというので、病院内に緊張が走りました。中庭に軍医や看護師らが集まってラジオに耳を傾けていましたが、私は病室のベッドで考え事をしていました。

 しばらくして、すすり泣きが聞こえ始めました。ラジオは聞こえませんでしたが、それが意味するものは想像できました。

 戦争に負けたことには、悔しさも悲しさもなかったんです。ソ連が満州(現中国東北部)に侵攻してきたこと、広島や長崎にえたいの知れない爆弾が落とされて壊滅的な被害を受けたことなど、絶望的な状況であることは知っていましたから。飛行隊長から「米軍が九州に上陸してきたら全機が水際特攻で戦うように」という趣旨のことも言われていて、その覚悟すらしていましたから、むなしさだけが残りました。

 私は少年飛行兵として東京や中国・南京などで訓練を受け、特攻隊に志願したこともあります。国のために命をささげることが当たり前でした。一緒に訓練した多くの同期や先輩が、特攻で命を落としました。

 戦争では、命は粗末に扱われます。私も、パラシュートで脱出する前には、人の命を奪おうとしていたわけですから。当たり前のように命のやり取りが行われる戦争を、二度と繰り返してはいけません。(聞き手・小森有喜)

【くぼ・たかお】1926(大正15)年、印南郡東神吉村(現加古川市)生まれ。41年に少年飛行兵に志願し、翌年に錬成学校入学。戦後は1男1女の父となり、NHK神戸放送局を退職後、加古川市内で学生服店を営んだ。趣味は海外旅行。

    ◇

 終戦から、間もなく75年となる。戦争では、何が起きたのか。戦争は、何をもたらしたのか。当時を知る人たちの声に、改めて耳を澄ましたい。

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