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藤田きみゑさん
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藤田きみゑさん
広東第一陸軍病院の看護婦としてカルテを記入する藤田きみゑさん=1941(昭和16)年
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広東第一陸軍病院の看護婦としてカルテを記入する藤田きみゑさん=1941(昭和16)年

■兵庫県稲美町・藤田きみゑさん(100)

 その赤ちゃんは、片方の足首から先が吹き飛ばされていました。大きな声で泣いていたのに、どんどん虫の息みたいに小さくなって…。夜が明けたら、私の腕の中で亡くなっていました。70年以上たっても、忘れることはできません。

 昭和19(1944)年のことです。中国の広東が真夜中に爆撃され、従軍看護婦として働いていた広東第一陸軍病院の宿舎から飛び起きて、担当していた第一外科病棟に向かったんです。そしたら大勢の民間人が運ばれてきて。その中に赤ちゃんがいた。30歳くらいのお母さんと一緒でした。

 お母さんは爆弾が近くに落ちたのか、おなかが血まみれで意識がなく、間もなく亡くなりました。赤ちゃんは母親のそばで泣きやまないので、私が抱っこしてあやし続けていたんです。

 何の罪もない母親と子どもが、こんな悲惨な死に方をする。これが戦争か、と思いました。

 当時の私は「戦争熱」とか「軍国熱」みたいなものに浮かされ、お国の役に立とうと志願して陸軍病院の看護婦になっていました。

 あのお母さんと赤ちゃんが死んだ時、初めて戦争が憎いと感じました。

 従軍看護婦は、軍に随伴して傷病兵の手当てに当たる要員として、戦地に派遣された。兵隊と同じように召集や志願で集められ、日中戦争から終戦までに3万人以上が動員された。戦禍に遭ったり、伝染病にかかったりして多くの看護婦が亡くなったとされる。

 広東の病院では、41年から働きました。最初は伝染病棟で、腸チフスや赤痢にかかった兵隊さんを手当てしました。腸チフスは39度以上の熱が出て、ぶるぶるとけいれんが起きるんです。兵隊さんの頭にひたすら氷枕を押し当てました。

 赤痢の患者さんには、(体液の代用液)リンゲルや生理食塩水を注射して水分を補給します。太い注射器の針を太もも辺りに刺すと、脚が風船みたいにどんどん膨れ上がっていく。お湯に浸したタオルを巻いて、もみほぐすと腫れは引きました。兵隊さんは絶対に「痛い」と言わず、ただ顔をゆがめていました。

 2年目のことです。第一外科病棟に全身やけどの兵隊さんが運ばれてきました。肌は真っ赤にぶくぶくと腫れ上がっていました。

 毎日、看護婦3人で全身の包帯を交換しました。少しでも気を緩めたら、皮がめくれてしまいます。ガーゼに薬を塗って、3時間ほどかけて取り換えました。

 ある時、兵隊さんが「姉さん、あまーいおはぎが食べたいんよぉ」と口にしました。意識がもうろうとして、私をお姉さんと勘違いしたんでしょう。1週間くらい手当てして、私は別の患者さんのところに行ったので、あの兵隊さんがどうなったのか分かりません。あのやけどでは、助からなかったかもしれません。

 今でも、眠れない夜は兵隊さんや一緒に働いた看護婦の顔を思い出す。人間の殺し合いを繰り返さないために、残された者にとっては、戦争の悲惨さを語り継ぐことが使命やと思います。(聞き手・千葉翔大)

【ふじた・きみえ】1920(大正9)年、明石郡岩岡村(現神戸市西区)生まれ。従軍看護婦として中国・広東に派遣され、3年半にわたって現地の病院で勤務。帰国後も看護師として働き、10年前からは稲美町内の小学校で戦争体験を語り続けている。

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