東播

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吉田清さん
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吉田清さん
占守島の片岡基地で勤務していた頃の吉田清さん(前列右)=1944年4月
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占守島の片岡基地で勤務していた頃の吉田清さん(前列右)=1944年4月
神戸新聞NEXT
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■兵庫県加古川市 吉田清さん(99)

 日本の最北端だった北千島の占守(シュムシュ)島。向こう岸にソ連の建物が見えるような所で、海軍の航空整備兵として勤務しとった。

 風速60メートルの台風並みの強風が、毎日のように吹く。立っとることもできない。移動の時は、建物と建物の間に張ったロープにつかまった。吹き飛ばされるから単独行動は禁止。ロープのない場所で行動する時は、必ず誰かと体をロープでつないで、一緒に動いた。

 そんな強風やから、吹雪はものすごかった。ある日、上等兵が独りで外出し、帰ってこんかった。凍死したんやろう。

 夜中の衛兵当番(見張り)は、マイナス30度の中、兵舎の外で4時間交代で立っとかなあかん。壁にもたれたら、眠とうてなってね。でも、寝たら凍死してしまう。銃を落として目が覚めたこともあった。

 毎日の除雪も整備兵の仕事。飛行場に向かう道の両側に積み上げた雪は、高さ7~8メートルにもなった。木綿の軍手は凍り付き、ゴム長靴も凍ってバリバリと音を立てとった。

 私ら補充兵は、つらい仕事ばかりやらされた。徴兵検査で虚弱やったから甲種合格ができず、後で臨時召集されたのが補充兵。はがき1枚が1銭5厘やったから、召集令状で呼び出された私らは、いつも「お前らは1銭5厘の人間やから」と軽く扱われた。

 昭和18(1943)年11月、私の所属する531海軍航空隊に南方進出の命令が出た。私は占守島の片岡基地に残ったが、整備兵も、同年兵も、半分くらいになった。玉砕したと後になって聞いた。

 北海道沖から約1200キロにわたって連なる北方四島と千島列島。北端に位置する占守島の広さは淡路島の約6割。1945(昭和20)年8月15日に日本が降伏した3日後、占守島はソ連の攻撃を受け、千島の島々を占領されることになる。

 昭和19(1944)年7月、占守島の隣の幌筵(ホロムシロ)島にある擂鉢(すりばち)基地に派遣されていた時、腹痛に襲われた。盲腸やった。

 設備も薬も整ってない医務室で、皮下注射の麻酔だけの手術。麻酔が効いているのは切開する時だけで、メスが内部に入ると、ものすごく痛い。手足を押さえられ、「痛い」と言うたら「ぜいたく言うな」と殴られた。手で内臓を探られ、失神しそうになった。

 兵舎の板張りの廊下に寝かされ、療養していた時、擂鉢基地が米軍の艦砲射撃を受けた。体が震えるくらいのドーンという音が、3時間くらい続いた。逃げられへんし、死んだらそれまでと思とった。

 占守島に帰ってからも、飛行場の滑走路で米軍機の機銃掃射を受けた。身を隠す所がなく、ドラム缶の後ろに逃れたけど、燃料が入っとるドラム缶に弾が当たっとったら死んどった。

 その年の10月に内地に帰還命令が出た時も、手術痕が痛くて船に乗り遅れたら、その船が撃沈された。缶詰工場から帰ろうとしていた若い女性が、ようさん北千島の海に沈んだ。

 私はソ連の攻撃を受ける前に、内地に帰ることができた。生き残ったのは、運が良かったというしかない。戦争なんかしたら、国民がえらい目に遭う。絶対にするもんやないわ。(聞き手・斉藤正志)

【よしだ・きよし】1921(大正10)年、武庫郡西灘村(現神戸市灘区)生まれ。21歳で召集され、広島県の呉海兵団に入団した。戦後は郵便局や進駐軍の炊事場などで働き、48年から神戸製鋼所に勤務。2女に恵まれた。

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