東播

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千田征男さん
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千田征男さん
原爆で一面焼け野原となった広島市街=1945年8月
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原爆で一面焼け野原となった広島市街=1945年8月

 1945(昭和20)年8月6日、広島に世界で初めて原爆が投下され、同9日には長崎にも落とされた。一瞬にしてまちは壊滅。計約21万人が亡くなったとされ、生き残った人たちも原爆症に苦しんだ。連載「私の戦争 戦後75年」は原爆編として、現在は兵庫県の東播地域で暮らす被爆者5人の体験を紹介する。

     ◇     ◇

■高砂市 千田征男さん(75)

 母は突然倒れ、けいれんを起こし始めました。顔が青ざめ、嘔吐(おうと)する。意識がなくなったようになり、会話もできません。母はどうなってしまうのか。幼かった私は、ただ見守ることしかできませんでした。

 私は昭和20(1945)年7月に、岡山県日生(ひなせ)町(現備前市)で生まれました。両親と4歳違いの兄は広島市で暮らしていましたが、戦況が厳しくなり、母が私を出産するので、終戦の2カ月ほど前から父の実家に疎開していたんです。

 父は広島に一人で残り、鉄工所に勤めていました。8月6日に原爆が落とされ、母は数日後、生後1カ月の私を抱いて、広島まで父を探しに行ったんです。

 まちは焼け野原になり、防空壕(ごう)の中から、まだ煙が上がっていたと聞きました。市内を流れる太田川には、大勢の遺体があったといいます。

 爆心地から約700メートルの所に仕事場があったのですが、焼け野原になり、何もなかったそうです。原爆が落ちた時、そこで働いていたのかどうかも分かりません。その後も、父から連絡はありませんでした。遺骨も見つかっていません。

 母は、私が物心ついた時から、発作を起こすようになっていました。広島で入市被爆するまでは、そんなことは一度もなかったそうです。原爆症だったのでしょう。

 発作は、いつ出るか分かりません。自宅の居間に座って普通に話をしていても、急にけいれんを起こし、うなり始めます。前触れもなく、外出先で急に起きることもありました。

 入退院を繰り返し、どこの病院に行っても原因が分かりませんでした。症状を抑える効果があると聞くと、薬や漢方など、何でも試していました。でも、80歳すぎで亡くなるまで、発作がなくなることはありませんでした。

    ◇

 戦後は祖父母と母、兄の5人で、日生町で暮らしました。母は私が被爆したことを、他人には隠していました。差別されるかもしれないと恐れたのでしょう。私は、小学校高学年の頃には入市被爆していることを聞いていましたが、原爆というもの自体がよく分かっていませんでした。

 貧しい暮らしでした。父がおらず、母がれんが会社の手伝いをして得る収入だけが頼りでした。

 少しの畑で作物を育て、おやつといえば決まって芋です。いつも麦を混ぜたご飯を食べていました。

 小学校では同級生が16人いましたが、みんな父親がいる。何で僕だけおらんのか、と何度も思いました。ずっと我慢していました。

 父が生きていたら、母に原爆症がなかったら、私たち家族はどんな生活を送っていたでしょう。

 原爆が使われれば、大勢の人たちが、私たちより、もっと悲惨な目に遭います。原爆は、もう二度と使ってはいけません。(聞き手・斉藤正志)

【せんだ・ゆきお】岡山県日生町(現備前市)生まれ。中学卒業後、れんが会社に勤務し、18歳で国鉄(現JR)に入社。高砂工場で車両整備員として働いた。高砂市原爆被爆者の会の代表を務める。

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