東播

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西田光衛さん
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西田光衛さん
京都二中時代の西田光衛さん(前列右端)=1943年6月(本人提供)
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京都二中時代の西田光衛さん(前列右端)=1943年6月(本人提供)

■高砂市 西田光衛さん(90)

 ラジオから流れてくる声は、途切れ途切れでした。

 「日本負けたんと違うか」。父がつぶやきました。15歳だった私は「そんなばかな。神風が吹くんちゃうんか」とむきになりました。

 昭和20(1945)年8月15日。実家の京都の寺で、玉音放送を聞きました。

 父が「天皇陛下の大切なお言葉があるから、しっかり聞け」と、母やきょうだいを庫裏(くり)に集めました。ラジオの声は何を言うてるか、よう聞こえんでね。父に教えられても、日本が負けたということが、とても信じられませんでしたな。幼い頃から、天皇陛下のために死ぬのが普通やと思わされてましたから。

 当時は京都府立京都第二中学(現・鳥羽高校)の3年生でした。学校では、すねにゲートルを巻き、兵隊のような軍服姿でした。

 2年生までは軍事教練が毎日のようにありましたな。「鬼畜米英」を殺すための練習です。木銃を構え、敵に見立てたわらの束に駆け寄って、「イチ、ニッ、サン」と勢いよく突きます。敵につかまれるから、すぐさま引くんだと教えられました。

 英語の教師は「敵はワイルドアニマル、野獣や。日本人を食いよる」とか、ルーズを「ずれる」と解釈して、当時のアメリカ大統領ルーズベルトのことを「ベルトのずれたおっさん」とばかにしていました。

 なのに終戦後、教師は手のひらを返し、ルーズベルトを「デモクラシー(民主主義)の神様」とたたえていました。「天皇陛下は人間になられ、これからは君たちが主になる時代や」と言うんです。

 親も教師も天皇陛下も、私らをだましていたんか、大人はうそばっかりやと憤りましたな。

ポツダム宣言を受諾し、降伏することを伝える玉音放送は、1945年8月15日正午からラジオで放送された。「現人神(あらひとがみ)」とされた昭和天皇が終戦の詔書を読み上げ、全国各地で敗戦にうちひしがれる泣き声が響いた。この日を境に、軍国主義などの価値観は一変した。

 小学生の頃、天皇陛下が明治天皇のお墓である伏見桃山陵に参拝のため、よく京都にいらっしゃいました。近くの小学生が集められ、道路沿いに並んだ児童の前を、陛下を乗せた高級車がゆっくり通過します。列を乱さず、腰を90度に曲げて最敬礼し、決して顔を上げません。神様である天皇陛下を見ると目がつぶれると言われとったので、とうとう最後までその姿を見ることはありませんでしたな。

 終戦後、皇太子さま(現在の上皇さま)を間近に見る機会がありました。私が通う京都二中にいらっしゃったんです。その時、新聞記者から「天皇は日本国民の象徴や。皇太子が来られたら、わーっと駆け寄ってくれ」とお願いされました。

 でも、いざ目の前に来られたら、圧倒されて動けませんでした。戦時中は次の神様になる存在やと思っていたわけで、刷り込まれた意識は、簡単には切り替えられなかったですな。

 終戦で世の中が180度、大転換し、大人たちが変わったせいで、私には今も、人のことを信じきれない後遺症があります。「この人は本心で言うてるのか」と疑ってしまうんです。こんな人間を生み出す戦争は、絶対にやったらあかんのです。(聞き手・小尾絵生)

 この連載は随時掲載します。

【にしだ・こうえ】1930(昭和5)年、京都市下京区(現・南区)の持宝寺で生まれる。9歳で得度。戦後は中学や高校の教壇に立った。77~2011年、高砂市の十輪寺の住職を務め、現在は名誉住職。

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