東播

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藤本利夫さん
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藤本利夫さん
藤本つや子さん=1940年代
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藤本つや子さん=1940年代

■兵庫県加古川市 藤本利夫さん(91)

 地獄は、この世にあるんだと実感しました。

 焼夷弾(しょういだん)が雨のように無数に落ちてきて、家は炎に包まれました。必死で逃げ、自宅裏の運河に係留していた木造船に飛び乗りました。船の上から見たまちは、火柱が何本も立ち、風で巻き上げられています。そこには家や学校、映画館もあったのに…。

 1945(昭和20)年3月17日未明、神戸市兵庫区で空襲に遭いました。

 米軍機の大きな音で目覚め、外に出ると、南の空で照明弾が光りました。真夜中のはずなのに、まちを見渡すことができました。

 ラジオから「岡山上空をB29が70機東進中」と聞こえました。当時14歳だった2歳下の妹つや子は、泣いていました。あんなに泣いているつや子を見たのは、初めてでした。

 私と父は自宅に残り、つや子は、母と弟と一緒に、避難場所に決めていた大輪田橋の下のトンネルに向かいました。そのすぐ後に、焼夷弾が降ってきたのです。私も後からそのトンネルに行きましたが、煙が充満して入れませんでした。

 炎から逃げる中、家族は散り散りになりました。

 私の逃げ込んだ船にも火が燃え移り、別の船に移動しました。その船が転覆して気を失い、気付いた時には、いかだの上に倒れていました。脚は血だらけでした。母と弟もやけどを負いました。

 朝、兵庫運河に架かる大輪田橋の上には、女性や子どもの遺体が折り重なるように並んでいました。

 避難所となった小学校で家族と落ち合いましたが、つや子だけがいません。何日待っても、帰ってきませんでした。

 太平洋戦争末期の45年、神戸への空襲が本格化。無差別に焼夷弾が落とされ、まちは焦土と化した。3月17日は、6月5日とともに特に被害が大きく、大輪田橋周辺では約500人が亡くなったとされる。終戦までに神戸の空襲で8千人以上が亡くなったとされるが、正確な人数は分かっていない。

 つや子の消息は、いつまでたっても分かりませんでした。

 空襲を受けてから、家族で父の故郷の加古川市に疎開しましたが、人が訪ねてくるたびに、つや子かもしれないと思い、玄関まで走りました。もう帰ってこないと、うすうす分かってはいたんですが…。

 兵庫区役所に失踪届を出したのは、空襲から10年後です。どうやって亡くなったのかも分かりません。

 つや子は、家の手伝いをよくする活発な子でした。一緒に遊んだ思い出は少ないけれど、晩ご飯を一緒に食べながら学校であったことを話してくれ、よく笑っていました。

 遺品で残っているのは、写真1枚だけです。まだ14歳だったのに、悔しかったでしょう。何の罪もない人を巻き込む。それが戦争です。二度と無意味なことは繰り返してはいけません。写真を見るたびに、その思いで胸がいっぱいになります。(聞き手・千葉翔大)

 この連載は随時掲載します。

【ふじもと・としお】1929(昭和4)年、大阪府南高安村(現八尾市)生まれ。父の仕事の関係で、12歳の時に神戸市兵庫区南逆瀬川町へ転居。戦後は三菱電機姫路製作所で自動車部品の製造などに携わった。

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