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フィリピン・ミンダナオ島での日々を振り返る加武三代子さん=高砂市内
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フィリピン・ミンダナオ島での日々を振り返る加武三代子さん=高砂市内
フィリピンに住んでいた頃の加武三代子さん(左)と夫の喜三郎さん=1937年
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フィリピンに住んでいた頃の加武三代子さん(左)と夫の喜三郎さん=1937年
神戸新聞NEXT
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■母乳出ず、1歳の勝は餓死した

 おなかをすかせて泣いている子がいる。小さな赤ちゃん。あれは勝(まさる)だ。ご飯を食べさせないと-。加武三代子(かぶみよこ)さん(103)は兵庫県高砂市の特別養護老人ホームの部屋で目を覚まし、夢だったことに気付く。太平洋戦争の激戦地だったフィリピン・ミンダナオ島のダバオ。75年前の夏、逃げ込んだジャングルで餓死し、亡きがらを現地に残した次男勝ちゃん=当時1歳4カ月=のことを、三代子さんは今も思い出す。米軍や抗日ゲリラにおびえ、死と隣り合わせだった日々。壮絶な体験を聞くため、施設を訪ねた。

 緑と黒の柄入りシャツを着た三代子さんは、施設の職員が押す車いすに乗って、ロビーに現れた。小柄で温厚そうなおばあちゃん。それが第一印象だった。

 「フィリピンで家におる時は、隣の家の赤ちゃんにあげるくらい母乳が出たんですよ。だから、ジャングルに逃げて母乳が出なくなるなんて、夢にも思わなかったんです」

 新型コロナウイルスの感染防止のため、机に透明のついたてを立てていることもあり、か細い声は聞き取りづらい。取材に同席した四女の北越アヤ子さん(73)=同県姫路市=に時々、話した内容を教えてもらった。

 「親も食べる物がない。母乳が出なくなると、勝は飲む物がなくなった。どうしようもなかったです」

 三代子さんは、淡々と回想する。

 「勝を抱いて寝とったら、朝起きたら亡くなってました。鼻から一筋の血を流していました」。ほとんど表情を変えずに、話した。

    ◇

 三代子さんは1917(大正6)年、島根県鍋山村(現雲南市)に生まれた。36(昭和11)年5月、ミンダナオ島に入植していた14歳年上の喜三郎さんと、19歳で結婚する。

 喜三郎さんは伴侶を探すために一時帰国しており、三代子さんは仲人に「フィリピンに行けば、鶏がなんぼでもおりますけん」と薦められたという。初めて喜三郎さんと顔を合わせたのは、結婚式の時だった。

 「主人の兄と父もいて、男3人のどれが私の婿さんか分からんかった」と笑って振り返る。

 3カ月後にフィリピンへ。夫は26(大正15)年から移住しており、ダバオ近郊のトマヨンで、船のロープなどの原料となるアバカ(マニラ麻)栽培を軌道に乗せていた。

 果実や野菜が豊富に実り、現地の人を雇うなど、豊かな生活。37(昭和12)年に長女ミドリが生まれ、翌38(同13)年に次女英子(ひでこ)、さらに39(同14)年に長男茂(しげる)と、子宝に恵まれた。

 ダバオで暮らす日本人はアバカの輸出で富を得て、2万人に迫っていた。東南アジアで最大の日本人社会が築かれ、中国東北部の「満州国」になぞらえて「ダバオ国」と呼ばれるほどだった。

 その頃のフィリピンは、米国の植民地だった。46(同21)年に独立することを約束され、その準備政府が発足していた。

 広大な土地を手に入れ、財を成した日本人は、フィリピン人の反感を買っていた。41(同16)年12月の日本軍による真珠湾攻撃で、それは敵意となり、在留日本人に降り注いでいく。

 三代子さんら家族も、国家間の憎悪の連鎖に巻き込まれていくことになる。(斉藤正志)

    ◇

 戦争を知る人たちに話を聞く連載「私の戦争」。今回は、加武三代子さんや家族への取材、本人の手記などを基に、当時の体験をたどります。

【フィリピン戦線】日本は1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃の直後、米国統治下のフィリピンを空襲。翌42(同17)年に全土を占領した。44(同19)年から戦局は悪化。45(同20)年には米軍の攻撃を受け、日本兵と在留日本人はジャングルに敗走した。爆撃や飢え、病気、抗日ゲリラの攻撃で大勢が亡くなった。フィリピンでの戦没者は約51万8千人に上り、ミンダナオ島の山中では数千人の民間人が犠牲になったとされる。

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