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満下春子さん
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満下春子さん
電話交換手を務めていた頃の満下春子さん(右、本人提供)
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電話交換手を務めていた頃の満下春子さん(右、本人提供)

■兵庫県高砂市 満下春子さん(94)

 「あす知覧(ちらん)にたつから」

 夜、若い特攻隊員から交換台に電話がかかってきました。人恋しかったんやろうねえ。長い間、しゃべりました。

 名前も言わず、たわいない世間話をして、「勝ってくるぞと勇ましく…」と軍歌を一緒に歌いました。

 今の加古川市尾上町にあった陸軍飛行場で訓練を受けていた若者でしょう。尾上は知覧飛行場(鹿児島県)への中継点でしたから。

 満下さんは戦時中、現在の高砂市高砂町の郵便局2階にあった電話交換所の電話交換手だった。電話をかけた人と相手の回線を手作業でつなぐ。主に10、20代の女性が務め、空襲警報を伝えるなど国防の重要な役割も担った。敵機が迫っても回線をつなぎ続け、神戸など各地で大勢が犠牲になった。

 24時間、見張っている監視塔で敵機が発見されると、交換所に直接連絡が入ります。「警戒警報発令」と、短く一言だけ。

 住民が避難できるように、交換手はすぐに役場や警察署に連絡しないといけません。軍需工場にもです。高砂には砲兵工廠(こうしょう)(現在の神戸製鋼所高砂製作所)がありました。

 爆撃されても、交換手は逃げたらだめなんです。「ブー、ブー」と大きなサイレンが鳴っていても、交換台を守らないといけない。

 「共に死ね」ということなんです。警報が解除されると、また連絡をしないといけませんでした。

 高砂の交換所には交換台が7、8台あり、交代で泊まり勤務をしていました。自宅が近かったので、非番でも警報が鳴ると、飛んでいって手伝っていました。

 明石が空襲された時、加古川の河原から見えました。すぐそこが真っ赤に燃えているようでした。近くで空襲があったら怖いなと思いましたが、お国のためです。交換手をやめたいと思ったことはありません。

     ◇

 若い特攻隊員と話した翌日、加古川の飛行場の方角から、機体を揺らし、翼を振りながら低空で飛んでいくのを、郵便局の屋上で見ました。ハンカチを振って「行ってらっしゃい」と見送りました。

 「あす、会うてくれませんか」。そう電話で言われて、高砂神社で会った人もいました。軍服姿で同じ年齢ぐらいの、かわいらしい顔をした青年でした。

 境内を歩いて、池で子ガメを背中に乗せた親ガメを見て、「かわいいね」と話したことを覚えています。後から聞いたのですが、そろっと私の母親が付いてきていました。家に連れてきたら何か食べさせてあげようと思っていたようです。

 その人も名前を言いませんでした。もし戦死したら、会った時の様子を家族に伝えることができたかなと思い、名前を聞いておけば良かったと後悔しました。

 若い彼らが出撃して命を落としたかもしれないと思うと、今でも悲しくなってね。もっと早く降伏していれば、特攻もなかったのに…。ばかな戦争をしたんだなと思います。(聞き手・若林幹夫)

 この連載は随時掲載します。

【みつした・はるこ】1926(大正15)年、加古郡高砂町(現高砂市)生まれ。41(昭和16)年から終戦まで電話交換手を務めた。戦後は神戸市内の川崎重工業の独身寮で事務員として働き、結婚後は故郷に戻って雑貨店を営んだ。

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