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 古典落語として名高い「牡丹灯籠」「真景累ケ淵」「塩原多助一代記」「文七元結」…。本書はこれらの噺を生みだした「大圓朝」こと三遊亭圓朝の一代記、江戸末期から明治期を駆け抜けた落語中興の祖の物語である。描かれるのは、物語を成立させるまでの「生みの苦しみ」であり、初演の緊張であり、演じ続けるための工夫や努力だ。

 噺家の息子に生まれた圓朝は、17歳の若さで真打になった。師匠の圓生に「この子は筋が良いね」と褒められたこともある。口跡、所作、間の取り方。腕には自信がある。だが21歳になる今、なぜか客が入らない。ある時、客同士の会話を聞いていて気づく。「もしかしておれは、華がないんだろうか」。華は生来のもので、努力して身につくものではないのではないか…。圓朝はぞっとする。

 「華」を得るために、噺を芝居風の道具仕立てで演じることを思いつく。徐々に評判を呼び、人が入るようになる。やがて「吹ぬき亭」の席亭が、トリで使ってやってもいい、ついては仲入り前に、師匠の圓生に出てもらったら、と言ってくる。圓生は「いいよいいよ、やってごらん」と承諾してくれた。

 しかし当日、圓生はなんと、これから圓朝が道具鳴り物入りで演じようとしている演目をやってしまう。トリの圓朝は仕方なく、急きょ噺をつくって演じた。そんなことが10日間、続いた。だが「自分で拵えて、自分でやる」ことを覚えると、自由になれた。「羽、生えたのかもしれねぇな」

 創作噺を演じることに開眼したのだ。それからどんどんつくり始める。他人を観察し、その言葉を注意深く聞き、想像力を駆使する。

 怪談についてのエピソードが面白い。そもそも圓朝は、幽霊は「いる」と思っている。例えば本書の冒頭で、幼い圓朝は幽霊らしきものと遭遇する。その話をすると、兄が「幽霊ってのはな、人の心を映す鏡なんだ」と教えてくれる。その後も圓朝の前には、何度か幽霊や生霊が現れる。

 彼が生きていた時代にはまだ「闇」があった。霊と出会える空間と時間があり、異界へ通じる道があった。それを感受しながら、豊かな物語を紡ぐ。明治期に入り、周囲が「幽霊なんていない」と言うようになっても、圓朝は変わらない。

 落語というのは、人の心が分からなくてはつくれないし、演じられない。圓生から、はめられたといってもいいような仕打ちも受けた圓朝は、その理由が当初は理解できなかった。しかし後年、自分の弟子が、弟子自身が拵えた噺を高座にかけて人気者になってゆくのを見たとき、やっと気づく。自分の師匠がかつて、どんな気持ちになったのか、ということに。

 売れたい。ウケたい。おもしろい噺を聞かせたい-。噺家としての生々しい欲が、随所にみなぎる。晩年、高座で言い淀むようになってしまっても「次、やれば、きっと」「おれは本来、こんなものじゃない」と自分を奮い立たせる。表現者としての執着の強さに立ちすくむ。

 あまりにも人間くさく、芸人くさい、生身の圓朝が、そこにいる。

 (中央公論新社 1800円+税)=田村文

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